2005年03月10日

Wind of Short Leg

 実は、というほど話でもないのですが僕は足が短かったりします。
俗に言う短足ですね。
俗もくそもないですね。
短足です。
せっかくなので四字熟語にすると、胴長短足となります。
この中に美しい日本語の響きを感じ取っていただきたい。ぜひ声に出して。
そう、もっと大きな声で!!

 さて、何故だかは分からないのですが、世の中の美意識では、D=胴の長さ/足の長さとしたとき、Dが小さければ小さいほど素晴らしいとされています。これを足長信仰Dとでも呼びましょうか。
足長信仰Dは社会のあらゆるところに蔓延しています。かっこいいスタイルを考えたとき、まず間違えなく背が高く、すらりと痩せていて、そしてなにより足が長いスタイルが思い浮かびますよね。間違えても背が低く、太っていて、足が短いスタイルということはありません。
 物語世界を考えると、たとえば典型的なおファンタジーの世界では、力はあるけど見た目はあまりよろしくないドワーフなんかは足が短いですよね。というか足の長いすらっとしたドワーフというのは実に気持ち悪いですね。ケンダーやホビットなど道化的な役割を持つ種族も同じです。そして美しい美しいと実に鬱陶しいぐらいの美しい形容詞によって形容されるエルフなんかは実に痩身で実に足が長い。なにより、コボルト、オーガなど敵方の種族はダークエルフなどの例外を除き、ほぼ間違えなく短足です。
 これは足長=美、短足=醜という足長信仰Dの典型的な考え方ともいえるでしょう。
 またほかにも、身寄りのない女の子を支援する紳士は、あしながおじさんであり、間違っても私のどうながおじさんではありません。それではコメディになってしまいます。
 そうです、足長がよいことをするとそれは美談になりますが、短足がよいことをしても笑い話にしかなりません。足長の苦しみは悲話になりますが、短足の苦しみは笑い話であり、足長に嘲笑われるだけなのです。
 僕のように短足にとっては、悲しいことではありますがこれが世の中の真実です。実に、不愉快なのですが、短足がそれを主張しても上記のように笑い話にされるだけなのです。このような現実に存在する差別に対して、市民団体はいったい何をしているのでしょうか。ちびくろサンボを発売中止に追い込んでき喜んでいる場合ではありません。
 
 ところで上にも書いたようにチビ、デブ、短足とくればスタイルの三重苦と呼ばれ、ヘレン・ケラーの一万分の一ぐらいは苦しまなければならないようですが、幸いのところ僕は身長は平均以上はあり三重苦の地獄からは免れているようです。
 デブは微妙ですね。身長から求めた適正体重プラス四キロ程度なので許容範囲内ではないかと思うのですが、筋肉がないため、余分な体重は主にお腹の脂肪に集中しているため、まあデブともいえなくもないのかもしれません。最近お腹が邪魔になることも多いし、半デブといったところでしょうか。そして短足です。ということはだいたい1.5重苦といったところでしょうか。
 悩ましいところです。
 当たり前ですが、身長に対する胴の割合というものは、体重のように一朝一夕に増えるものではありません。僕は昔わりと痩せていましたが、胴長は胴長でした。ついでに言うと視力は悪かったため、席は大体前のほうにしてもらった記憶があります。
 クラスで一位二位を争う胴長が前のほうの席。しかも身長はそれなりにあるため座高は堂々たるものがありました。字義通りの意味で居丈高とでも言いましょうか。
 おかげで僕は教室のエアーズロックの称号をいただいていました。実に的を射た称号といえるでしょう。クラスメイトの厚い友情に涙を禁じえません(哀しみの)。
 というように僕は昔から短足、というか胴長、というか座高の高さに悩み、苦しんできました。足長信仰Dに侵された世間の冷たい仕打ち(座席の背もたれがどこにいっても低い等)にも耐えて、せめて自分の中だけでもポジティブに生きようと思い、座高が高いと映画館とかで前の人の頭が邪魔にならないとか、人と対面で座ったとき相手を威圧できるとか、座ったままで遠くを見渡せるとか、自分が古式ゆかしき日本人を体現するものだとか、そう思い主張してきたのですが、悲しいかな返ってくるのはいつも微妙な苦笑だけでした。せめて笑ってくれるなら、僕も耐えられたのですが……そしていつも僕は枕を涙にぬらしていました。
 そもそも僕が猫背なので上のポジティブシンキングが何も意味を成さないということもあるような気もします。残念なことでありますが、猫背は短足と違って自分の責任ですから、なんとも言い訳できません。
 でもね! でもですよ! ひとつ言わしてもらうとね、座っているとき僕が背筋をしゃんとしていたら僕の頭だけ飛び出るんですよ! 悲しいじゃないですか。しかも身長が同じような人たちと座っててもですよ! 実に悲しいのです。
 僕が今のように内向きな性格になるのも頷けることでしょう。それもこれもなにもかも世間の足長信仰Dが悪かったのです。あと郵便ポストが赤いのもですね。
 
 しかし、ここ数年僕は風向きが変わっているのを感じるのです。
 そう、風が僕に吹いてきているのを感じるのです。
 誤解があるかもしれないので一応書いておきますと逆風じゃなくて、追い風です。当たり前ですね。
 それというのは、ここ数年のえー、ヒップホップとかそういう系統のファッションの流行なのでしょうか、どうも流行に押し流されない確固たる自我を持つ僕にはよく分からないのですが、いわゆる若者の、とくに男のファッションに大きな変化があるように思われます。
 これまでのファッションなら若者はなんというかこう、足が長く見えるような格好をしていたのだと思います。いや、昔の流行とかもっと分からないのですが、すらりとしたズボンをはいていたんだと思うんですよ、多分。もちろんズボンを下にずらしてはくなんていうことはありえなかったはずです。
 しかし、ここ数年ありえないことが起こってきています。渋谷などの町に出かける流行に敏感な若者が、ズボンを腰の低いところまでずり下げては着こなしているという光景をよく見かけるようになりました。正直僕は最初このような光景が意味するところを理解していませんでした。なぜ、ズボンをずり下げるのだろう、という疑問しかわかなかったのです。そう、そのときは自分が短足でありながら足長信仰Dに侵されていたのでしょう。ズボンを下げたら短足に見えるのに、なんでわざわざそんなことをするのだろうという疑問しか思い浮かばなかったのです。
 これは足長信仰Dの根の深さを意味しているのではないでしょうか。僕はずっと自分の短足に対してポジティブシンキングでいようと思っていましたが、ポジティブシンキングをしようと思うこと自体が短足が悪いものであると考えている証拠なのです。そうです、足長信仰Dに非を唱えながら、その実自分自身どっぷりと足長信仰Dに使っていたのです。
 
 だがしかし、ある日渋谷を歩きながら、そんな若者たちを見ていたとき、先ほどの疑問に対する答えが天啓のごとく頭にひらめいたのです。目の前の霧が晴れたようでした。僕はその瞬間自分で悟りを開いたのです。
 そうです、あの若者たちは短足に憧れていたのです。
 なんというシンプルな答え。
 しかしこれはシンプルでありながら、新しい時代の到来を意味するとても重要なことなのです。
 考えてみれば当たり前のことでした。足の長さが足りない人はシークレットブーツで足を長く見せるでしょう。それと同じように、足の長さが余っている人は、ズボンをずり下げることで、足を短く見せているのです。
 そう、価値観は変わったのです。
 もはや足長信仰Dは時代遅れとなり始めているのです。
 流行に敏感な若者たちは皆、短足に憧れています。しかし彼らは皆かわいそうなことに足がちょっと長すぎるために理想的なスタイルから外れてしまっているのです。しかし整形などで足を短くすることはできません。だからせめてズボンをずり下げることで、少しでも理想的な短足のスタイルに近づけるように努力しているのです。
 そう悟ったとき、僕は長年の悩みから解き放たれた気持ちになりました。
 そうです足長信仰Dも頑強であるとはいえ結局はただの価値観のひとつ、時代遅れの欧米信仰の残骸に過ぎません。そしてそれはいまや砂上の楼閣、崩れ去ろうとしています。もちろん、世代の上の人たち、そして僕のように流行をあまり気にしない人たちはまだまだ足長信仰Dの呪縛から解き放たれないでしょう。
 しかし少しずつかもしれませんが、必ず社会全体が変わっていくはずです。流行を追うことはない人でも価値観には必ず影響を受けます。
 これからは、誰もが、「短足」に憧れるのです。
 新しい理想的なスタイルは、足長ではなく、僕のような短足になるのです。
 確かに短足スタイルはまだまだ普及段階にあります。この文章をよんで、何を馬鹿なと笑う足長も覆いのではないでしょうか。しかし笑っていられるのも今のうちですよ。十年、いや五年以内には、きっとみんなが短足を理想的と思っているはずです。そしてモニターの前のあなたも、僕のような短足人間を見て、ああなんて素敵なスタイル、と思うに違いありません。
 そう思うとなんだかとてもうれしくなって、いつもは鬱陶しい渋谷の人ごみもなんだか楽しく、そう自分はお前らと違って、未来の理想的なスタイルなんだと優越感に浸りながら歩いていました。とても素晴らしい気分です。
 僕は今、五年後が楽しみで仕方ありません。