2008年06月26日

d080626.png

コミティア申し込んだ。
申し込んだだけー。


XREAの遅さに磨きが掛かってきたぜ!


殺人だけならサルでも出来るらしいですよ。

この前の通り魔事件の犯人だけど、ああいった類の人間がタンポポを乗せる仕事で稼いだ給料をせっせとどっかのデブにお布施をしていたら幸せになったのかなあと、ちょっと思った。
いや、真面目な話ですが。
ああいうのがメンタルなセイフティーネットになったりすることもあるのかなあと思うと、なんだか残念な気分になる。


77歳の元少年が自分の家族を惨殺するという事件が発生したそうです。
日本の教育の貧しさが、このような心の貧しい人間を育てたために引き起こされた事態と思うと、とても暗い気分になります。
被害者のご冥福をお祈りいたします。


「White Album」が今更アニメ化て。
でもまあアイドル物と言うことで流行にあっているのかな、と言う気もする。


血液型性格診断。
話のネタにしているだけ、ではあるのだろうが。
そうであったとしても。

■「ケータイ小説的。」
世間ではケータイ小説が売れていると言うことで、せっかくネット上でただで見られるんだしと思って、oAutoPagerizeを突っ込んで鬱陶しいページ遷移なしで恋空でも快適に読むか! と思うも最初の四ページぐらいで、あまりのアウェイ感に挫折してしまったので、ではしょうがない、ここは外堀から固めようということで、一つここは論評を読もうと思って買ってみました。

ケータイ小説論というよりは、ケータイ小説を通じてそれらを読んでいる/書いている人たちを分析している本でした。具体的に言うと「ファスト風土」などという言葉に代表されるような地方の、ヤンキーと呼ばれるような若者の分析。
良く見てみたら本のタイトルもそんな感じですね。

最初にケータイ小説と浜崎あゆみの関連と、ケータイ小説関連の話ではよく持ち上げるリアル、の話ときて、本題である地方のヤンキー論に入り、ケータイ小説がリアルに映し出す彼らのコミュニケーション、という感じで展開されてます。
同じ日本語を使っていても自分とは全く接点のない世界を垣間見られたようで実にファンタジーな気分です。
自分の世界の狭さを痛感させられます。
今居る地方都市も地元生え抜きの人たちはこんな感じなの多いのかなあ。接点が全くないので分かりませんが。

しかし分からないんでね、本当に。
地方とかヤンキーあたりの話。というか携帯周りの話もそうですが。自分の情報源は周りの人間と本とネットぐらいですが、周りの人間はある程度近いのが多いし、本はまあ、基本的にそっち方面のは読まないし、ネットはステロタイプに見下す言説をするところばかり見るし。いや、それはそういうところしか見てないからですが。

コミュニケーションの話。
最後の章がそのあたりの話だけど。このあたりは正直別にヤンキーとかに限定される話ではないよなあ。ケータイもmixiもブログもtwitterもチャットも似たような話で。
毛繕い的コミュニケーションという物が存在するというのは理解しているし、mixiなどを覗きつつ、ああ、これがアレか、みたいな風に思うこともある。親戚と会っているといとこのケータイが結構ひっきりなしになるのでビックリする。メッセだって役に立つことは多いかも知れないが殆どは毛繕い的コミュニケーションに使われているんだろうと思う、が。
まあ、なんというか。
コミュニケーションが楽しいのは分かるけど、それで使うエネルギーを考えると、常時繋がっている、というかそれに近い状態というのは、どうにも持ち出しが多いように思われる。大事なのはメリハリですよね。
いや、それは自分の問題。

うーん。
よくわからないことがわかった。
特に分かる気がないこともわかった。

■「ぼくらの alternative」
青は藍より出でて藍より青し。
という言葉が適切かどうかは分からないけど、読んでぱっとそんな言葉が思い浮かんだ(一応ググって確認しましたが)。勿論設定にしろキャラクター(の大部分)にしろ元々の原作が会ってこそだし、原作があってこそこの小説のインパクトが大きいんだけど。
しかしこれが、メディアミックスだ。
これこそが、メディアミックスだと言いたくなる。
もとよりあまりメディアミックスは好きでもないし、見なかった方がよかったかなあと思うことも多々あるけど、こういうのを読むとそれだけでメディアミックス万々歳!! と言う気分です。こんなに嬉しいのはプラネテス以来かも知れない。原作者が絶賛するのも分かります。

もともと趣味の悪い設定で、いやらしい展開の多いという実に僕好みのマンガではあるのですが、それをより悪趣味に、より絶望的な展開に。
キャラクターと話の組み替えも絶妙。見苦しかった人間はより見苦しく、原作では真っ当に戦ったものが、戦う意義を見失い仲間に殺され、報いを受けた人間はより最悪の形で自分の行為の結果を引き受けることになる。
原作の設定を最大限生かしながら、かつ

原作を読んで気に入った人なら、読んで損はないと思います。あと、その際にはぼくらのの元ネタである秋山ジョージの「ザ・ムーン」を読んでおくとより楽しめます。コエムシとかアレやらコレやら、ある意味では原作以上に「ザ・ムーン」ネタが多いので。


ついでに「ぼくらの」について二つ思ってること。
一つはゲームの主催者はだれか、と言うことです。宇宙の剪定という事なのですが、何故剪定が必要なのか。何故こういった非常に人間的なルールで選別が行われるのか。何故人間が特別なのか。
このあたりフェルミのパラドックスとかと同根だと思うけど、こういった話ではどうしても考えてしまいます。小説ではむしろその疑問を上手く作中の展開に取り込んでいますが。
原作でもおそらくそのあたりを明かすことはないだろうし、明かされるとむしろ萎えるだろうなあと、思います。
もう一つはいつ世界は分岐するのか、と言うことでこれは割と真剣に謎。可能性の数だけ宇宙が存在するのだとしたら、あんな悠長なルールで牧歌的に宇宙の剪定なんかしている間に宇宙の数は爆発してしまうわけですし、そもそも戦闘の途中でどんどん分岐していくわけで、ジアースが勝った宇宙とジアースが負けた宇宙が存在してしまうと言うなんだかよく分からない話になる。
剪定候補に選ばれた時点で、分岐しなくなるという可能性はあるけど、それにしても引っかかる。
そういえば「1999年のゲーム・キッズ」で自分が失敗したと思った瞬間死ぬ装置を付けた人間は、成功しかしないというネタがあったなあ。失敗した宇宙の自分は死ぬから、成功した宇宙しか認識できないという。どういうオチだったかは忘れたけど。


■「家なき鳥、星をこえる」
「ぼくらの alternative」最高!! の勢いでじゃあ別のノベライズを読んでみるくぁーと持ってプラネテスのそれを読んでみたわけです。漫画版ハキムの過去! 果たしてなぜイケメンの彼はテロリストになったか!!

ピュアーだからですよ! 勿論! ピュアーな彼がこんな汚い世界に耐えられるわけないじゃないですか。セーラー戦士なみにピュアーな彼が醜い彼らを修正しようとして何が悪いんですか。ピュアーイズジャスティス!
ピュアーイズビューティフル!!

という話。いや、違うけどさ。
いやもう、なんかラストガックリきました。何じゃそれですよ。マンガのハキムの最後もガックリですが、じっくりしっかりその背景を描かれた分、ガックリが増し増しだ!
あ、前半は面白かったです。
まあ、その分と言うことで。

■「嘘つきみーくんと壊れたまーちゃん」
なんかすごいっす。という噂を聞いて読んでみた。
まあ、なんというか。飛天御剣流の技は、凡て二段構え、ということで、二段構えのオチの後半になにかハッピーな気分になりました。
これがシリーズ化されているというのも凄い話です。

■「少女七竈と七人の悲しい大人」

わたし、川村七竈は大変遺憾ながら、美しく生まれてしまった。

という書き出しがなにか愉快な感じだったので読んでみた。
母親が”いんらんである”がために絶世の美少女にうまれた七竈の美しさを巡る物語。美しく、鉄道オタクの少女が楽園を出るお話。

なかなか味わい深い雰囲気でよかった。地方都市というのも良いですね。
そういえば、ケータイ小説には東京が出てこないというのをちょっと想い出した。この本には出てくるので、逆に。

桜庭一樹の中では砂糖菓子と同じぐらい好きかも。

■「ブルースカイ」

近世のドイツ、未来のシンガポール、現代の日本の三つの時代を舞台にした少女という概念のお話。つまり、”少女”が生まれる前と、”少女”が居なくなった後と、”少女”の居る世界の物語ということで、なかなか美しい構成です。
本全体としては、な、なんだコレは! というかんじだったのですが(そんな悪い意味でもなく)、それはともかく、最初のドイツ編の魔女狩りのお話に心打たれる自分がおりました。
んー何とも言い難い気分。
「百年の孤独」とかおもろいのかなあ、と言う気分。

■「武田くんの恋人」
桜庭一樹の小説のイラストをみさくらなんこつが書いているという事で気になっていた本が、開店したばかりの某書店に行ったら売っていたので、お買い上げた。
ないようは、えーっと、画面から嫁が出てきたらいいよねー。
と言うお話。
多分。
直球のライトノベルという感じです。年下のツンデレな女の子と知り合いではないお前らはゲームのキャラクターと恋愛するのが吉だと思われます、というメッセージを聞き取った気もしますが。

最近桜庭一樹の小説を幾つか読んだけど、こういう謎っぽいのを仕込んでおくのが好きなんだなあと、思った。

■「DRAGONBUSTER 01」
秋山瑞人の最新作、中華風ファンタジー。
面白かったけど、続きでんのかなー。

■「南極1号伝説」
言わずと知れたダッチワイフの代名詞、南極1号(俗称らしいですが)の話などを導入にして、オリエント工業などによって風船から見事なラブドールに発展していったかと、素材などラブドールの基本的な情報、そして今どういったメーカがどういった製品を出しているか、どういったユーザがいるかなど、ダッチワイフ関連の一通りの情報を得ることが出来ます。
結構面白かったです。前ネットで見たダッチワイフのデリヘルの帰結を知られたし。
新書で読めれば良かったぐらいの内容ではありますが、図版もそれなりに充実していたしまあ、いっかなあと思います。オリエント工業の「微笑」はなかなかの衝撃です。

秋葉原方面に行くことがあれば、オリエント工業のショールームにでも行ったみたい。

■「日本人のしつけは衰退したか」
今度の通り魔事件での日本の教育とかしつけが貧困になっているというような言説が、まるで常識のように語られることが多々ある。どっかの県知事など教師が暴力をふるうことを認めるべきだと言っていたりもする。そりゃあまあ、子供が出版社を襲撃したり未成年を売春したり後輩に暴力をふるったりするような大人に育たないか不安になるのも分かるけどね。よっぽど大した時代に生まれたので現代の日本が不安で仕方がないのでしょう。

そんな通説が果たして正しいのかと言うことを、主に明治以降の資料や統計を使いながら共同体、学校、家の三軸という視点から分析している本。
結論から言えば子供の教育を取り巻く環境は大きく激変したが、だからといってしつけが衰退したとは言えなず、むしろ意識は高まっている、と言うことだと思います。

過去の共同体のしつけなどは現在想像されるようなしつけではなく、閉塞的であったりもする。良い点があったとしても弊害も多い。学校は過去先端的な教育の現場として信用を得たが、最終的にはそれを失っていく。一方で家庭は子育ての主体になり、全責任を負うように求められる。また、子育てについての言説は相矛盾するものが代わる代わる立ち現れる。その中で、適切にしつけが出来ないとなやむ親もあれば、過剰に子供に関わってしまう、という問題が起きたりもする。

結局の所、社会の経済状況などの変化に対応した形で
一方でメディアの報道内容の変化がタイトルのイメージを流布させる原因となっているのではないかと思いました。その中には昔問題だと思われなかったことが、今問題だと思われるようになっている、というのもあるんですが。

経済的な格差がなくなっていく(と言うイメージが流布)する過程で、分かりやすい原因結果の関係がなくなり、教育に対する議論が非論理的なっていくというのは面白いなあと思いました。

あと、昔の自分の体験談と、現在のニュースを比較するという知性と想像力の貧困は、割と深刻な問題であると思います。さらに過去を美化するバイアスがあり、過去を生きていなかった人たちが空想的な美化を行い、生きていた人たちまでそれに影響されて自分たちの時代を実際以上の物だという妄想を覚えてしまうのかと思います。
僕も身近な人々と、ン十年前の殺人者どもを比べて、いかに現代がまともでしつけがされてて心の豊かな時代かを論じてみたいものです。
いや、良い時代だと思いますよ。実際。

■「くらやみの速さはどれくらい」
21世紀版「アルジャーノンに花束を」と評され、ネビュラ賞を受賞した作品。例えるなら「重力の使命」に対する「竜の卵」と言ったところか。
自閉症が生まれる前に治療できるようになった時代、新たに開発された自閉症の治療法に最後の世代の自閉症患者がどうするか、というお話。これが自閉症患者の一人称視点から書かれているのが面白い。
「僕には数字が風景に見える」にあるような数字などパターンへの特異な認識や、人間関係における感じ方の違いなど、同じ世界をいかに違うように見ているかというのを多少なりとも感じられるのは素敵だった。
あと、とにかくタイトルが良い。このタイトルだけでも本一冊の価値はある。


■「ある飛空士への追憶」
ネットで絶賛されているので読んでみた。
将来の皇妃と、傭兵パイロットの逃避行の物語。
なんというか、特にどうこう言うこともないのですが、良い小説でした。作者が「ラピュタ」+「ローマの休日」というのを狙っただけあり、なかなかさわやかな読後感です。
暇だしなにかライトノベル読むけど良いのない? と聞かれたときに僕の手持ちの中では一番薦めるに値すると思う。
一巻完結というのもいい。

■「レヴィアタンの恋人」
「ある飛空士への追憶」が面白かったので買ってみた。人工ウイルス禍によって社会が崩壊した世界で、生き残った人たちが頑張る話。ウイルスに耐えて超能力を手に入れた人間とかがバトルしたりするんですが、まあそれはともかく、調布とか高尾とか姫路とかのローカル感が素敵です。
世界設定とか微妙にグロ描写があるのをのぞけばかなり真っ当なボーイミーツガールのライトノベルでした。

■「日本の電機産業 再編へのシナリオ」
総合電器はもうアレなんで業種別に再編成しないよヤバいっすよ、マジで! って本。
へー。

2008年06月21日

d080621.gif

2008年06月20日

d080620.gif

2008年06月19日

きこきこ

■「伝説巨神 イデオン 接触編/発動編」
たいらいさおの復活のイデオンが格好良すぎたので、実習先の飲み会の二次会のスナックのカラオケで歌ったら、その時代生で楽しんでいた方がいらっしゃって駄目な会話になってDVDを貸していただけることになるという、楽しげな話があった。気をつけろ! 奴らは何処にでも居るぞ! 例えば自分の部屋とかな。
しかし会話中にダメだよ、こんなの見たりしてちゃとか何回も言われた。
そんなこと言われましても。


イデオン

なんだこりゃー
こりゃー
りゃー
ゃー

……

接触編はテレビの総集編という話で、わりと要領よい導入になっていて某Zの一作目みたいになんだか訳分からん気分になることもあまりなくほー結構面白いなーと思っていたんですが、発動編はじまると物凄い勢いで話が飛んでいて、見たことのないヒロインが出てきて、主人公と喧嘩したと思ったら仲良くなって次の瞬間に死んだのでビックリした。
接触編と発動編の間にコスモ発情編(ゴクリ……)とか隠れているんじゃないかとDVDボックスを調べ直してしまった。
なかった。
まあどうも、打ち切りになったTVシリーズをちゃんと完結させるために、総集編作って、真の最終話をつくった、それがそれぞれ接触編と発動編と言うことらしく、物語としては起と結だけを見させられたという感じなので、僕がビックリするのも無理がないと言えましょう。

第六文明とかなんとかいっているけどイデオンのデザインをゴーした人は頭がおかしいと思うんですが、見ている内にだんだん格好良く見えて来るのは気のせいでしょうか。
気のせいでした。
ストーリーは起結しか見ていないので何とも言えません。多分最終話をちゃんと楽しむためにはTVシリーズをちゃんと全部見る必要があるんだと思います。トラウマアニメと言われるのは理解できる、が、それを実感するためには映画の尺では短いんでしょう。

しかし、特に女性がどんどん頭がパーン!! してくんですが、あれは監督の好みでしょうか。まあ、なんでもいいです。それなりに重要なポジションのキャラが前振りなしでアッサリ死ぬと割とビックリしますね。連続したので後の方はそうでもなかったけど。

結構楽しかった。
ただ、個人的にはイデの設定はあまり好きにはなれません。ホントに好みの問題だけど、超越的な力が卑俗なモラルに左右されるというのはどうにも違和感がある。別に良い悪いの問題じゃないけど。それが第六文明人なんだよ、と言われれば返す言葉もございません。

ラストは……まあ……どうでもいいや。


理解できない事物を原因と位置づけることで、何故か理解できた気分になると言う不思議。
というか罠。
というとお前は何か理解していることがあるのか、と聞かれそうな気がします。うーん。
理解できないことを理解できています! 
とか。
ダメですか。
そうですか。
そうですね。


人が楽しく自己嫌悪に浸っているときに話しかけられるとマジで困る。
こう、堂々巡りの思考で不毛な事に糖分を消耗しているというのに、いきなり返事を返すことなど出来ますか。
出来ますが。

一人で黙々と出来ることだからと言って、仕事中にそういう脳暇つぶしはよろしくないですね。そんなことをしているときに限ってミスしません。なんですかね。急いでないからかな。


まあ、なんか働いてます。
まだまだ現場実習で、一日約八時間立ちっぱなしで働く生活がもう四週間以上続いています。なんだかんだで結構疲れるので、もしかしたらそろそろイケメンになっているのではないかと毎日鏡をチェックするのですが、特に変わる様子もありません。
不思議です。


最初は露骨に溜息をつかれたり空気読んでよみたいなことを言われたりする度に気にしていたけど、単にそういう人だと分かってからは、そういうものかと思うようになった。特に意図を込めているのではなく、本当にそう思ったから言っただけということがわかったので。


工場は標語が多い。


コンサルの人と現場の何とも言えない空気が素敵です。コンサルの危ない流儀を読んだせいかもしれないけれども。
事前と事後でどれだけ効率化できたのかを数値で出せないのかしら。


パーツがバーン!!!


実習生が出来るミスは一通りこなした気がする。


もうすぐおわり。


中高大と僕も大概チャックの開けっ放しが多い人間ではありましたが、十年前の僕は社会人になってもチャックを閉め忘れるどころか、半開きだよと指摘されて全開にしてしまうような人間になるとは想像しても居なかったでしょう。
哀れなことです。

しかし社会の窓とは言った物ですが、字面を考えるなら、社会の窓、社会への窓が開いているというのは社会ときちんと関わっている人間であるということを暗喩するのではないでしょうか。逆に考えると、社会の窓が閉まっているというのは、社会に対して閉鎖的な人間であると言うことを意味するのではないかと。
そこで僕は胸を張っていいましょう。

僕の社会の窓はよく開いてます。

2008年06月14日


1.お腹が減ったので、鶏を食べよう
2.美味しいと聞くし、鶏を食べよう
3.食べてないと笑われるので、鶏を食べよう。
4.鶏って何?

2008年06月10日

まるき

秋葉原で通り魔殺人が発生したとかで色々話題になっているようです。まー人が多いというのもあり、ネットが普及しているというのもあり、カメラ付き携帯が普及しているというのもあり、そういう人が集まるところと言うのもあり、犯人が2チャンネルに描き込んでいたというのもあり、色々、アレですね、メディアを論じている人もいたりするようで、取り巻く状況が21世紀です。未来万歳。

個人的にはあんまり興味を引く事件というわけでもないのですが、僕の身を案じてメールやら電話が来たので、心配してくれる人がいるというのはありがたいことだなあと言う感想を持ちました。
でまあ、通り魔殺人なんて発生するときは発生するしなあ、自然災害みたいなものだよなあ、とかそういう事を考えていたのですが、調べてみると、7人が殺されて重軽傷者が二桁、という事件は結構珍しいということで、意外と際だった事件なのかなと思い直しました。

それで何がポイントなのかな、というとやっぱりトラックですよね。トラック。通り魔殺人で自動車を使って群衆に第一撃を叩き込むというのは、一度やられてみると当たり前のように感じるのですが、むしろそれは凄いアイデアの証拠と言うべきでしょう。斬新なアイデアというのは聞いてみると思いつかなかったのがおかしいとすら思えるものです。
車、というものはおそらく日本で一番人を殺している道具の一つであると思います。そのスピードと質量をもって殺傷力に優れた道具でありながらしかし、車が人を殺すのは多くは故意ではありません。不注意だったりどうしようもなかったり。殆どは運転手が殺すつもりもなく殺してしまう場合でしょう。
もしものを思うことが出来るなら、おそらく車もそれを不満に思っているのではないでしょうか。ダレでも手に入る道具の中で最強の殺しの能力を持ちながら、使うのは殺す覚悟もない人間ばかり。俺は殺すのが好きなんじゃない。楽しく殺すのが好きなんだ! そんな不満に身を焦がしていたに違いありません。
そして今回の事件がおきました。車にとって、待ち人は来たれり、と言ったところでしょうか。殺すために自分を使う人間が、しかも劇的に登場したのです。これからの通り魔殺人はみんなきっと、車を使ってくれるに違いない! もし車に心があるなら、そんな風に思っているのではないかと僕は推察します。

さて、通り魔殺人でどれだけの人間が殺されるかと言うことを考えると、その場の人の密度が大きく関係しているのではないかと思います。人が多ければ多いほど移動が阻害され、逃げることは困難になり、犯人が凶行を行える人数もふえていくと考えられます。強い原動機の付いた車を持ってすればその傾向はさらに強まるでしょう。人単体では点でしか攻撃できないのが面で攻撃できるのですから。小回りはきかないけど。
そういえば寮の駐車場でターンの練習をしている車があったけど、あれってきっと通り魔を行うときになるべく小回りがきいてより多くの殺傷を行えるように鍛えているのだろうと思います。なぜ警察は取り締まらないんでしょうね。早く捕まればいいのに。かように世の中には恐るべき凶器に満ちています。
もし凶器としての車をふるう人間が、例えば土曜日の夜の渋谷のスクランブル交差点に現れ、横断歩道の信号が青になってから三十秒ほど経ったときに突如アクセルを全力で踏み込んで人で充ち満ちた路上に動く鉄のかたまりとして突入したらと考えると、恐ろしくて昼も眠れません。

通り魔殺人。恐ろしいことです。世をはかなんだ気違いのために7人の地球より尊い命が失われました。これ以上地球より尊い命が一定以上の確率で生まれ出る気違いのせいで失われるということは、何としても防がねばなりません。もしこういった外道が行われうる可能性を残するとしたなら、僕たちはどうやって後世の人間に胸を張って正しく生きたと、言うことが出来るでしょうか。そう、世をはかなんだ気違いは自殺以外出来ないような思いやり社会を僕たちは手と手を取り合って作らなければならないでしょう。

まず、なぜ、今回の事件の犯人が7人もの命を奪うことが出来たのか。その答えは一つ。殺す手段があったからです。すなわち、原動機を積んだ数トンもの重量を誇る鉄のかたまりトラックと、人の肉を紙のように易々と切り裂くサバイバルナイフです。その二つの凶器があればこそ、犯人は短時間で複数回の殺傷を行うことが出来ました。
で、あれば、それを防ぐ手段はただ一つ。
人を殺す手段を持つことを全面的に禁止することです。
今回頭の良い政府の高官は、早速サバイバルナイフの規制を打ち出しました。慧眼です。さすが、と言ってもいい。仮にも政治の世界で一定の地位を得るだけの人ではあります。しかし、それでは足りない。それだけでは足りない。人を殺すことの出来る刃物は、サバイバルナイフだけだろうか?
もちろん答えはノー。各家庭に常備されている包丁も、果物ナイフも、カッターも、ハサミもあるいはペーパーナイフですら人を殺すことが出来ます。そのような恐ろしいものが手放しで存在して言い訳がありません。
よって刃物の全面禁止を僕は訴えたい。
もちろん、禁止するだけでは世の中は成り立ちません。包丁も、果物ナイフも、カッターも、ハサミも、ペーパーナイフも使われるからこそ存在が許されているし、なければまともに生活を送ることも困難になります。代替手段が必要です。
そこで二つ考えました。一つは建物に固定され自由に動かすことの出来ない装置で、中に切りたいものをセットすると、なんでもプログラムされたとおりに切断してくれる装置を作る。財力に余裕がある家はコレを買うことで、むき出しの刃物を家に置くことなく様々なものを切ることが出来るようになります。
もう一つは切断サービスです。お店に切りたいものを持って行くと、業者が注文通りにものを切ってくれる。もちろん業者も直接刃物を扱うのではなく、それようの装置を使うことになります。お金がない人もそこそこの金額で切りたいものを切りたいように切ることが出来るようになります。そういった装置も人間が手で作るのではなく、刃物を作り研磨し、装置にセットする装置を使って、刃物に人が触れる恐るべき機会をこの世界からいっさい駆逐することが出来ます。

刃物はそれで問題ないかも知れません。しかし、人を殺す手段はまだいっぱいあります。そこで次に僕は動かすことの出来る重いものと硬いものを禁止することを提唱したい。動く重くて硬いものは多くの人を殺してきました。自動車、電車などはもちろんのこと、花瓶、ビール瓶、石、様々な重くて硬いものが人の命を奪ってきました。そのような悲劇をこの21世紀に残して良いのか?! もちろん答えはノーです。そう、重いものがあるから、硬いものがあるから人は死にます。だいたい時速百キロでうごく数トンの鉄が存在を許されている狂気の世界に暮らすことに僕は大きな恐怖を覚えます。
全ての重いものは、すべて固定しなければならない。固定するだけではダメです。人間が自分から突っ込むかも知れません。もしも高いところからおちてコンクリートの床に突っ込めば命はありません。突き落としの狂気にも対応せねばならんのです。そこで、全ての硬いものは柔らかい物質で覆わなければならない。そうすれば重いもの、硬いものによる全ての悲劇はこの世からなくなります。もちろん、これにも代替手段が必要です。
まあ、これは簡単ですね。幼稚園児でも分かります。重いのがダメなら、軽くなるまで分割すればいいのです。一トンの物も2000個に分割すればたったの500グラムです。硬いならさらに柔らかい物で覆えばいい。これをさらにゆっくりと運ぶ。ゆっくり動く500グラムの柔らかい物体で人を殺すことは難しいでしょう。コロンブスの卵のように思われるかも知れませんが、シンプルイズベストです。重い物、硬い物はこれで簡単に安全にすることができます。

これで、十分でしょうか、尖った物が、重い物が、硬い物が、なくなれば、人の命が奪われることがなくなるのでしょうか? もちろん、そんなことはありません。もっとも原始的で、もっとも危険な物をみんな見逃している。そう、
最後に僕は人の歯や手足を禁止することを提唱したい。

手は人を殺すことが出来ます。首を絞めることで、酷く殴打することで、高いところから突き落とすことで、あるいはその他様々な方法で。銃は指で引き金を引きます。ナイフを握るのは手です。
悲劇の多くは手によって起こされます。

足は人を殺すことが出来ます。充分に鍛えられた足であれば、頭蓋骨を陥没させることも出来るでしょう。内臓を破裂させることも出来るでしょう。今回の事件で人混みに突っ込んだトラックの、アクセルを踏んだのは犯人の足です。
悲劇の多くは足によって起こされます。

歯は、人の喉笛を噛みちぎることが出来ます。
あるいは、悲劇の幾つかは歯によって起こされうるでしょう。

そう、人に、手が、足が、歯がなければ、人が殺されることはなくなるのです。全ての人間が、他の全ての人間のために、一人がみんなのために、みんなが一人のためにその手足を切り落とし、歯を抜くのであれば、人が人を殺すことはなくなるでしょう。達磨大師は過去の人間ですが、その姿はあるべき未来人類の姿を示しているとも言えます。世界人類が、達磨になるならば、今回の秋葉原の事件のような恐るべき通り魔事件が起こる可能性はなくなります。
殺人はほぼなくなるのです。人と人が殺し合うことのない世界が誕生するのです。

これこそが僕たちが未来の子供たちに残せる、人と人の思いやりに満ちた最高のユートピアではないだろうか、そう僕は思います。

2008年06月08日

白いウマー

d080608.gif

白い

最近はラノベを読んだりアニメを見たりラノベを読んだりアニメを見たりネットをしたり。酒はあまり飲まない。というか飲めない。体質より心理的に。もうちょっと気にせず飲んでも良いのかなと言う気もするけど。前準備をするならだけど……。


スクライドは後半残念な感じ。クーガーや立浪ジョージがアホなことを言っているあたりが面白かった。無常は三流臭いし。あ、でも最終話で主人公二人がボコスカやっているのが痛そうな感じで良かった。ところで
これで谷口悟朗監督作品を全部見たかと思いきやリヴァイアスが残っていた。うーむ。スクライド見た感じでは更に遡る気にはあまりなれない。


マクロスゼロ。
マクロスFの10話がマクロスゼロを下敷きにしていると言うことで見てみた。ラストシーンは意味不明だったけど、それ以外は面白かった。過激なドッグファイトとか恋愛話とか無意味な変形機構とか土着の伝承とかSFとかいろいろな要素があるけど、五話でよくまとまっていたし、中だるみもない。どうもアニメオリジナルの作品の方が、原作付よりだれにくい印象がある。
マヤンの伝統と現代技術の相克をみて「キリンヤガ」の「空に触れた少女」を思い出したのは僕だけではないはず。
あと戦闘シーンがすごかった。3Dアニメでココまで出来るんだとちょっと感動。Fのトゥーン調のメカも良いけど、がっつりテクスチャ張って質感出しているのも重みが感じれて良い。


ラノベ。
仕事後の清涼剤によんでいます。あんまりコストパフォーマンスはよろしくありません。
ガガガが結構あたり多いんじゃないかと思う今日この頃。

2008年06月01日

ろっくがつ

d080601.gif

もっている資料では服の構造がサッパリ分からない。


このまえ遠出をしたとき、行き帰りの電車で本を読んでいたら、隣に座った男が大音量で音漏れをさせながら音楽を聴き始めた。こめかみに血管が浮き出そうになった。言って音量を下げてもらおうかとも考えたけど、もしかしたら恐るべき子供たちだったらこわいしなあ、と思い悶々としていたのですが、ふと、ああ、この人は日常的にイヤホンで大音量で聞いて居るんだろうなあ。そしてそのうち耳が悪くなるんだろうなあ、と思うと、イライラがすーっと引いていった。
心の持ちようですね。


寮で朝飯を食べていると、大体みのもんたの番組を流している。
どうでも良いニュースを何日も何日も何日も何日も同じように何度も流すなよ。どうでも良いニュースをバカみたいに何度も何度も。またみのもんたが無意味に偉そうでうっとうしい。あの鬱陶しい面と鬱陶しい声で自制心と養えと言うことか。イラッとする。
寮飯は止めるかね! 安くないし。


イライラした話。


谷口吾朗監督作品コンプリートを目指してスクライドを観賞中。他と変わらずケレン味タップリで馬鹿馬鹿しく密度が高く面白く娯楽だなあ。プラネテスの「月のムササビ」見たときは甚だしく違和感を感じたが、むしろ本領なんですね。
声優とか音楽とか色々見覚えのあるスタッフ名が散見される。あれ、聞き覚えのある声だなあと調べるとわりとあってる。こうやって声優に詳しくなるのか、と思ったけど名前覚えられん。
この人のアニメぐらい密度があると見ていてダレないんだけど、原作付とかとくに展開がかったるいのが多いような気がする。

マクロスFの今週はグッダグダだったしなあ。なんだあのとってつけたような”悲しい過去”は。コードギアスも休みだし。スクライドの続き見よう。