15 こんにちは
出かけるので適当に。
実写版デビルマンの酷評サイトをだらだらと見てました。もうすぐレンタル開始なので是非見たいのですが、一人で見る勇気はないので、誰か一緒に見ませんか。あ、部室で見ればいいのか。でも思いっきり新歓の時期にかぶっているし、新入部員と一緒に見て気まずい雰囲気になったらいやだしなあ。
僕はいったいどうすればいいのだろう。
出かけるので適当に。
実写版デビルマンの酷評サイトをだらだらと見てました。もうすぐレンタル開始なので是非見たいのですが、一人で見る勇気はないので、誰か一緒に見ませんか。あ、部室で見ればいいのか。でも思いっきり新歓の時期にかぶっているし、新入部員と一緒に見て気まずい雰囲気になったらいやだしなあ。
僕はいったいどうすればいいのだろう。
彼女は魔法使いなのですが、一度魔法を使うとその魔法を忘れてしまうD&D体質なので、閑なときはいつも勉強しています。
嘘です。
・不毛な日々
ここ三日ほど何をやっていたかというと、上の絵でも分かるとおりランス6をやっていました。
エロゲーです。
ランスシリーズは5D以外はやっていて、特に鬼畜王ランスはアホみたいにやりこんだ、懐かしのゲームだったりします。エロゲーが懐ゲーというのもあまり人には言えませんね。なんというか中学高校のときのリビドーは完全に二次元に向いていたような気がしてなりません。というどうでもいい告白。
でまあ貸して頂いたので溢れ出す懐かしさを押さえきれず、ついついプレーしてしまいました。そしたら何か三日もかかってしまいました。いや、不毛な日々。ティアの原稿やれよという話です。ついでに言いますと途中激しく面倒になったのでデータ改造してほぼ無敵モードでやっていたのですが、それで三日かかったので、素でやっていたらどれくらいかかっていたのだろうと思うとデータ改造して良かったです、はい。
それで面白かったかというと面白かったのですが、それは旧作をプレーしていたからかも。やりこみゲームなのに肝心のシステム周りに全般的に不満が滲み出るゲームだったような気がします。
まずメインのダンジョン部分なのですが、ウルティマアンダーワールドを思わす素晴らしくチープなビジュアルなのですが、理解を超越した重さを誇ります。後ろでソフト二三個動かしたら処理オチしまくって酔いました。プレステゲームかと思うほどロード時間長いし。あと戦闘シーンにしろキャンプ画面にしろ全般的に操作性が悪くストレスのたまるのは勘弁して欲しかったです。
それと鬼畜王がなかったことになっているので、鬼畜王で消化されたイベントをまた見ることになってなんだかなんだか。
とてもどうでもいいですね。
そういえば研究室を少し見に行ったのですが、夏学期の午後なんて誰も来ないいよとかいわれて、それで良いのかという気分なのですが、ティアのことを考えるとありがたいかも。
ほんとはヴァーチャルネットガンボーズ ヤコ34歳とかやってこれからは年増で禿頭だよ! とかやろうかと思ったのですが、書くのが面倒なのと、ネタがどっちも古いだろうと言うことでやめまして、適当な絵を。こういう絵を描くと自分の下手さが滲み出てさわやかな気分になるのですが、だれか絵が上手くなる薬物とか開発しませんか。
太陽の簒奪者読了。すごいまっとうなファーストコンタクト作品でびっくり。21世紀にこんな真っ正面からファーストコンタクトを扱った物があるとは思いませんでした。いや、悪い意味ではなく、語り尽くされた感のある分野を変な方向に逃げることなく描いて、ここまで面白い作品になっているんだからすごいなあと。
まあたしかにちょっと古めかしい宇宙のランデブーな雰囲気を感じることもないわけではないですが、ちょっと良い感じにナノテクやらAIやら意識の問題やらを交えつつ単に古くさいテーマの作品にはなっていません。
いやでもこういういかにも伝統的なSFの感じが逆にいいのかも。昨今流行の量子論とかサイバーパンクっぽいのとかばかりでは疲れるし、だからといってかっこよさげなSF的な小道具が出るだけの話というのもさみしいし、という事なのかもしれません。
80年代のファッションが流行るような感じで。
あ、ということはいつかオタクの主流が再びSFになることもあるのかもしれません。いいですね。
ジェットエンジンをつけた椅子に少女が乗って空を飛んでいる、という絵です。特殊フィールドによって風圧は百分の一以下に抑えられ、吹き飛ばされることはありません。
kobiyasi君がお絵描きまらそんに参加するようです。がんばれ。じゃなかった。がんばろう。
久々に本屋に行ったのでいろいろ購入。
とりあえず漫画コーナーでもっけの四巻と、銃夢ラストオーダーの七巻を購入。銃夢は正直買い続けるかどうか悩む。うーむ。あとすっかり忘れた英文法の本を一冊購入。やるのか? ほんとにやるのかおれ。文庫コーナーで小説版エマと、いつの間にか文庫化されていた太陽の簒奪者を購入。明日読む。あと友人のサイトを見てSFマガジン四月号を購入。イーガンが読みたくて。どうでもいいんですが、僕の少ない読書量だと昔の名作SFとか押さえていると新作に全然手が回らないのでどうしようとか思ったり思わなかったり。いまのところ昔の作品優先の感はありますが、古典になれなかった作品は容赦なく目録落ちするので手に入れにくかったりする。はやく書籍の電子化とか、オンデマンドとか一般化しないかな。
映画化するというので予習がてらに四年間ぐらい放置していた暗 闇のスキャナーを読了。
いや、これは素晴らしいですね。放置していたのが実にもったいない。高校のときに読んでおきたかった作品です。
どこからともなく供給される麻薬、物質Dについて探るため、覆面麻薬捜査官アークターは捜査官ナカマにも知らされずに中毒者グループに潜入していたが、ある日上司から、自分自身を監視するように命令される……
という感じでああいかにもディックだなあというあらすじではあるのですが、訳者後書きにもあるように他の長編作品とは結構毛色の違う小説です。ユービックやら他の作品にはいつもあった超常的な存在、あるいは現実が崩壊して高次元の現実が出てくるということもなく、ただひたすらに現実は確固として存在し続けます。そのかわりに、崩壊していくのは登場人物の精神、というか麻薬漬けになった脳みそなのです。登場人物は背後に存在するものにあやつられるなどということはなく、自分の判断ミスによって破滅の道を歩むというだけ。その人の現実が崩壊しても、作者を含め周りの人間は廃人となった彼を冷静に見つめている。そんな話を作者は非常に同情的で感傷的な視点で描いています。
こういう話は高校生のときの自分がとても大好きだったので、当時読んでいなかったのが残念でなりません。今は昔のようには読めないので。
そういえばディックはヴァリスでその超越的な意味不明さに打ちのめされ、聖なる侵入で挫折してから読まなくなりました。だれかヴァリスを理解できた方は僕に教えてください。
しかしヴァリスを傑作というひとはよくわからないなあ。
というわけで暗闇のスキャナー強くお勧めです。と書いて読む人は間違いなくいないわけですが。
やっちまった感たっぷりなのですが、無意味に時間かかったのでアップしちゃった。
上を上向くとかいうと、どこかのお馬鹿さんが鬼の首を取ったかのように日本語の間違えを指摘しますが(昔の自分……)、僕からするとバーカバーカ。
普通に考えればわかるでしょうけど、同じ言葉を二度使うことで意味を強めてるんですよ。すごい勢いで上向いてるんですよ。ぐわーっと! それぐらい悟れよ。
あの馬が馬鹿つったらすごい頭が悪いのです。頭が。
で、僕は今、頭が痛いんですよ、頭が。特に目が痛いの。
アレルギーって何語じゃボケーーー!!!!
そういえば最近の小中学生はマンガも読まず、ゲームもせず何してるんだろうと、疑問に思ったことがあったのですが、わかりました。ネットやってるんですね。
もしそうだったら今の僕と同じか。うわ、不健全。
んで、彼らが二十、三十になると、人生で大切なことは全てネットで学んだ、とかいうんだろうなあと思います。いや、絶対言う。断言してもいい。カシオミニをかけてもいい。
気がついたらまたXREAのレンタルサーバーの容量上限が増えていました。最初は50Mと認識していたのですが、つぎ見てみたら300M、そして500M。ついには1Gになっていました。ギガメールなどもよく聞くようになりましたし、これも時代の流れなのでしょうか。
ただほかのサービスと違って全然宣伝していないので、いつもなんとなく調べてみるまで気がつきません。せっかくなのだからもっと宣伝すればいいと思うのですが。
そもそもXREAは無料ウェブスペースはだいたい新規募集していないし、有料サービスにいたってはお金を払う方法が以上に分かりにくいという、なにがしたいのかよくわからないサービスです。いや、もしかしたら支払方法を調べられないような人間はうちのサービスは使わせんでっせ、という職人気質の人たちが運営しているという可能性も否定できません。
とはいってもXREAが何を思って運営しているのかなど僕には関係ないわけで、あまり気にはなりません。それより、僕がサーバースペースを使う以上のスピードで容量が増えていくので、不思議なフラストレーションを感じてしまうのです。いくら使っても使っても使い切れない。走っても走ってもゴールは自動車に乗って時速60km、法廷速度を遵守して僕から遠ざかっていく、そんな虚しさが僕の胸を通り過ぎます。
たしかに動画等を適当に作ってアップすれば1Gでもいとも簡単に覆いつくすことができるでしょう。しかし、僕にはそのようなことはできません。僕は目的のために、自分の信条を曲げるようなことはしないのです。たとえレンタルスペースを埋め尽くすという目的のためとはいえ、無意味な情報をこの広大なネット空間に撒き散らすという害悪を進んでやることなどできないのです。なにか、意味のある情報でなければ、1Gを埋めたところで、前以上の寂寥感に襲われるだけでしょう。僕は僕の心を裏切りません。
だからとりあえず、無駄なことをいっぱい書いてみようかと思うのです。千里の道も一歩から、と先人たちは言いました。僕もそう思います。たとえ、1G、二バイト文字で約5億万文字の容量とはいえ、毎日毎日少しずつでも文章をかき続けていけば、いつか必ず1Gは埋まるはずです。そう、これは単純な算数の問題です。一日五千字ずつ書き続けていればたったの10万日で終わるのです。え、10万日! と驚く矮小な世界観を持つ卑俗な人間もこのサイトを見ている人の中にもいるかもしれません。残念なことです。もしかしたら、ゆとり教育の弊害でしょうか。
10万日を365日で割ってみましょう。がっかりしないでください、筆算できないかわいそうな貴方にも電卓という強い味方がいますよ。
まず1を一回、次に0を五回押します。そして÷記号を押してから、3,6,5を順番に押して、それから=を押します。はい、簡単ですねー。
そうそう、よくできましたー。そう、答えはたったの約274年です。え、274年と驚く人もいるかもしれません。かわいそうな人です。でも嘆くことはありません。落ち込む必要はありません、貴方が悪いんじゃない。社会が、この社会が全て悪いのです。
274年は確かに一人の人間の尺度から見れば長いといえなくもありません。残念ながら現在の医療技術では一人の人間が二百年以上生きるというのは、先ず不可能といっても差支えがないでしょう。しかし、それだけのことで不可能といっていいのでしょうか。僕にはそれは、あまりに個人主義的過ぎると感じられるのです。
人間とはたとえ独立したひとつの存在と思えたとしても、その中には連綿と続く人類種の、そして僕らをはぐくんだこの社会の歴史がぎっしりと詰まった、フォアグラのようなものです。たとえそれは脂肪肝に見えたとしても、変な物好きのお金持ちのようにお金をどぶに捨てたくて仕方ない人たちにとっては、十二分、いや十三分に価値があるものなのです。
そう、僕たちは一人じゃないのです。いま暗い部屋の中で、あまりにもすることがないあまりに、このサイトを見て、限られた人生の大切な時間の一部を、路側帯のどぶの中に深く埋め込んでしまっているかわいそうな人、引きこもり予備兵力のあなたも、消して一人ではありません。
雑然とした部屋の中、ゲームコントローラーを片手にFFをやりながらもう、独りじゃないという妄言を吐いている悲惨な人たちも、決して独りではないのです。
人間は文化遺産を次の世代に渡すことで、他の動物とは比較にならないほど効率よく発展してきた生物です。ついでなので負債も次の世代に渡すことで、消化してもらう、つまり果たせなかった夢を時代に渡すことで、子孫に実現してもらうというそんな手段も、別にいいんじゃないかなあと無責任に思わなくもない自分がいることを否定できません。
つまり子孫にも毎日毎日文章を五千字書かせればいいじゃないかと、無駄な文章を省いていってしまうとそういうことです。子孫全てにちゃんと毎日毎日書く事を共用すれば、きっと末代までには1G全部埋めることができるのではないか、そんなばら色の夢を僕はいま見ています。
1G全てが文章でうまったウェブスペース。なんと夢のような個人サイトでしょうか。断言してもいいですが、世界、いやウェブ広しとはいえ、1G全てが文章でうまった個人サイトというのは先ず間違えなく、存在しないでしょう。そして、今後も存在することはないでしょう。そう、僕の子孫が完成させるまでは。
え、お前で末代だろうって。はっはっは。
もし僕の夢が達成すれば、きっとギネスにも認定されるのじゃないでしょう。そして、そのような快挙を成し遂げるような偉人が、他に存在するとは思えません。僕の名前はギネスの続く限り、この世界の一部に知られ続けることだと思います。
歴史に名を残すというのは、多くの人が夢見ることで、そして当たり前ですが容易に達成できるようなことではありません。ゴットハンドのように醜態をさらして、ある意味歴史に名を残してしまうこともあります。それもまたいいやり方なのかもしれません。
でも歴史の片隅の片隅ですが、このような方法で名を残すのもありなのではないかと思います。誰かやってみませんか? いまならお金を払わなくてもこのアイデアを譲りますよ。いや、僕のような壮大なビジョンを共有できるような人はいないかもしれませんから、これは無駄な呼びかけかもしれません。きっと時代を先取りしすぎているのでしょう。まあ仕方がないことだとは思います。天才は! いつの世も理解されないものなのです。天動説を、ではなく地動説を唱えたガリレオを教会はどう扱いましたか。ピカソの絵をみて、人々はなんと言いますか。「俺にもかけそう」
いつも凡夫は天才を認めず、出たくいを木槌で叩くようにこんこんやりながら階段で足が引っかからないように気をつけています。僕も、そのように気の配ることのできる繊細な人間になりたいと思います。だいたい天才というのはろくでもないものです。天で才ですよ。天が与えた才能。おいおい、じゃあ天才以外の才のは天がくれたのではないのですか。誰がくれたんでしょう。あ、親ですね。つまり天才の種は天上にまします存在のなにかでしょうか。つまり天才総処女懐胎説。恐るべき神。人類の発展にはすべて神が深くかかわっていたのです。
いや、いまネット上で使われる「神」の用例を見れば、いまや人類社会に神がかかわっているというのは全く珍しいことではないことが分かります。むしろ神は天にましますことをやめ、よっこらせっと下界へと降りてきているのだと思われます。例えば掲示板にエロ画像をさらせば、神キタ━━━━(゚∀
不適切な発言があったことを謝罪します。
さて、貴方の時間はこの文章を読んで十分に浪費されたでしょうか。もし浪費されたというかたがいらっしゃったら、僕はとても喜ばしく思います。ただ、忘れないでください。貴方が浪費した時間以上に、僕はこの文章を書く事で貴重な時間を浪費しているのです。貴方だけがつらいのではないのです。僕は、もっとつらいのです。でもみんなが時間を浪費する姿がみたくて、ただその一念で僕は頑張っているのです。だから、貴方が時間を無駄にしたと思ったとき、いつもそれ以上の時間を無駄にしている僕がいることを、ぜひ覚えていてください。
もし、皆さんに覚えていただけるのなら、これからも僕は皆さんが時間を浪費できるよう、頑張っていきたいと思います。あなたの時間浪費の友、巽でした。
おやすみなさい。
帰省してからここ数日、何をしていたかというとレポートを作っていました。
昨年落としたコンピュータプログラミングのレポートなのですが、昨年何故この講義の単位を落としたかというと、マリ見ての同人誌の原稿を書いていたからという非常に馬鹿馬鹿しい理由でです。
いやいや、同人活動は、その、なんというか、とてもクリエイティブで高等な趣味です。
ところでうちの大学の工学部は再履修の場合一こまに二重にとることができるので(というより1こま1.5単位なのでそれを認めないと学生が大変。いや単位を落とさなければいいという話しもありますが……ねえ?)、単位の余裕もないし、去年よりc言語の知識は格段に増えているし、試験ないしというわけで、再履修したのですが思ったよりレポートが大変で、かなり時間がかかってしまいました。
どんな課題だったかというと、面白いと思うプログラムを作れ、というものです。
こういう、学生の自主性に任せる課題というのは、学生にとってはなかなか面倒くさいものです。あまり簡単なものにすれば良い評価はこないだろうし、だからといってあまり難しいのは避けたいし、ちょうどいい難易度の課題を設定するのは難しいものがあります。
ただ先生としては楽なのでしょう。難しい課題をだせば、レポート出せない生徒が増えるのでしょうし、あまり簡単だと差がつかないし、とプログラミングに限らないのかもしれないですが、課題を作るのは大変だと思います。
どうも去年の課題は難しすぎたようで、今年は再履修が多いようです。名前は忘れたのですがなにかのパズルを解くプログラムを作れという課題でした。僕はぱっと見た限り原稿の片手間に作れるような感じもしなかったので無駄な努力をする前に、あきらめたのですが。ちなみにどうも完成していないプログラムでも単位は来たようです。
というわけで今年は去年の雪辱戦なので、パズルを解くプログラムを作ろうと思い、課題をイラストロジックを解くプログラムをつくる、にしました。
最初はグーグル尊師(グル)経由でたどり着いたサイトに乗っていたイラストロジックの解法を使って、つまり人間の解くやり方をそのまま使って発見的に解くプログラムを作ろうと思ったのですが、うまくプログラムする方法が全然思いつきませんでした。いやあ、人間ってすごいなあと思い知らされただけでした。一応変な方法でやれるかなあと考えてはみましたが、そんなあほなことをしなくてもコンピュータの計算力を活用するやり方のほうが簡単なプログラムになるということに気がつき、人間のやり方をまねするのをあきらめました。
人工知能って大変なんだろうなとちこっと思いました。
実際のやりかたとしては、特定の行、列について問題の条件を満たす全てのパターンをつくり、その全パターンで■になるマスを■と確定、×になるマスを×と確定、黒の場合も白の場合もあるマスは未定のまま、という操作を全ての行列で未定のマスが無くなるまで繰り返す、というやり方です。
具体的な例を出すと、
3□□□□□という問題の場合
■■■××
×■■■×
××■■■という三パターンが考えられるので、真ん中の■が確定となり、
□□■□□となります。
この操作を問題が解けるまで延々と繰り返します。
この全パターンを作るという操作はおそらく基本的な組み合わせのアルゴリズムだと思うのですが、僕はアルゴリズムに詳しくない上にアルゴリズム辞典を東京に忘れてしまったので必要以上に苦労してしまいました。×マスの数−(■ブロックの数−1)を■ブロックの数+1の領域に割り振ればいいだけの話なんですが。誰か適切なアルゴリズムを知っていたら教えてください。一応かなりばっちいソースで実装したのですがどうも気持ち悪くて。
このようにそれなりに苦労してプログラムしたのですが、残念ながらこのやり方では全ての問題が解けるわけではありません。全ての行、列で確定となる■も×もない場合、当たり前ですがこのプログラムでは解けません。実際、一意に決まるけどそうなる問題はあります。このような問題を解くには、まず解けるところまでといてから、未定マスのある列あるいは行で問題の条件を満たすパターンを仮定して解き、途中でうまくいかなかったならバックトラックして次のパターンをためす、という機能を入れればできるのですが、時間の都合上とめんどくさいのとで結局実装しませんでした。本当は時間があったはずなのですが、新歓用パンフに漫画を書いていたせいで時間がなくなっていたんだ! そうだった。僕は悪くない。よ。
しかしいつもプログラムをしていると思うのですが、どうも僕はプログラムが下手というかなんというか、やり方がまずいというか効率的ではないような気がします。
最初に具体的な形まで設計してからプログラムするほうが絶対効率的なのですが、できないのです。プログラムしながらどういうプログラムにするか考えているので非常に効率が悪い。無駄なコード結構書いちゃうし。コメントはなるべく書くようにしましたが、一ヶ月前に作った部分のデータ構造を勘違いして真っ青になったりしています。実に効率が悪い。
なんでこうなるかというと、プログラムしながらじゃないといまいち見通しが立たない、というよりとりあえずできる部分から始めないとと時間が間に合わないというのもありますが、結局はプログラムの経験値が絶対的に足りないという気もします。趣味でc言語のプログラミングなんてまずしないですし。プログラムという作業は嫌いではないのですが、自分から積極的に作りたいと思うものは無いということです。
なんかこれはプログラムに限らないことのような気がして非常にいやな気分になります。実際絵を描くことだって似たようなもので、うまくなりたいとは思うけど、こういうものが描きたいということはあまりなかったりします。じゃあなんで描いているんだよというとこれまで落書きした時間を考えると、なんとなくもったいないとかそんなものなのかもしれません。いや、比較したときのプロセスの楽しさでしょうか。単なるポテンシャルの低さかもしれません。まあ趣味はそれが一番という気もするので問題ないのかもしれませんが、勉学にももう少し比重を置くべきなのだろうとも思います。
実にどうでもいいですね。
ええと、プログラミングの話でしたね。いやもう書く事もないんですが。現状はC++の勉強しようかと思ったけど面倒くさいし、WindowsのAPIの勉強しようかと思ったけど面倒くさいし、PHPもちょっと触ったけど放置気味だし、そんな状態です。上にも書きましたが、作りたい物がないのに勉強する気にならんということです。
実に愚かですね。
そういえば全然関係ないのですが、ネット上でソフトを公開しているある企業がライセンス合意書の最後に、合意書を全部読んだ人は、当社にメールをくれれば1000ドルあげるよというメッセージを入れておいたら、ダウンロードが何千にもなってからようやく最初に連絡した人があらわれたとか言うエピソードをふと思い出しました。
実は、というほど話でもないのですが僕は足が短かったりします。
俗に言う短足ですね。
俗もくそもないですね。
短足です。
せっかくなので四字熟語にすると、胴長短足となります。
この中に美しい日本語の響きを感じ取っていただきたい。ぜひ声に出して。
そう、もっと大きな声で!!
さて、何故だかは分からないのですが、世の中の美意識では、D=胴の長さ/足の長さとしたとき、Dが小さければ小さいほど素晴らしいとされています。これを足長信仰Dとでも呼びましょうか。
足長信仰Dは社会のあらゆるところに蔓延しています。かっこいいスタイルを考えたとき、まず間違えなく背が高く、すらりと痩せていて、そしてなにより足が長いスタイルが思い浮かびますよね。間違えても背が低く、太っていて、足が短いスタイルということはありません。
物語世界を考えると、たとえば典型的なおファンタジーの世界では、力はあるけど見た目はあまりよろしくないドワーフなんかは足が短いですよね。というか足の長いすらっとしたドワーフというのは実に気持ち悪いですね。ケンダーやホビットなど道化的な役割を持つ種族も同じです。そして美しい美しいと実に鬱陶しいぐらいの美しい形容詞によって形容されるエルフなんかは実に痩身で実に足が長い。なにより、コボルト、オーガなど敵方の種族はダークエルフなどの例外を除き、ほぼ間違えなく短足です。
これは足長=美、短足=醜という足長信仰Dの典型的な考え方ともいえるでしょう。
またほかにも、身寄りのない女の子を支援する紳士は、あしながおじさんであり、間違っても私のどうながおじさんではありません。それではコメディになってしまいます。
そうです、足長がよいことをするとそれは美談になりますが、短足がよいことをしても笑い話にしかなりません。足長の苦しみは悲話になりますが、短足の苦しみは笑い話であり、足長に嘲笑われるだけなのです。
僕のように短足にとっては、悲しいことではありますがこれが世の中の真実です。実に、不愉快なのですが、短足がそれを主張しても上記のように笑い話にされるだけなのです。このような現実に存在する差別に対して、市民団体はいったい何をしているのでしょうか。ちびくろサンボを発売中止に追い込んでき喜んでいる場合ではありません。
ところで上にも書いたようにチビ、デブ、短足とくればスタイルの三重苦と呼ばれ、ヘレン・ケラーの一万分の一ぐらいは苦しまなければならないようですが、幸いのところ僕は身長は平均以上はあり三重苦の地獄からは免れているようです。
デブは微妙ですね。身長から求めた適正体重プラス四キロ程度なので許容範囲内ではないかと思うのですが、筋肉がないため、余分な体重は主にお腹の脂肪に集中しているため、まあデブともいえなくもないのかもしれません。最近お腹が邪魔になることも多いし、半デブといったところでしょうか。そして短足です。ということはだいたい1.5重苦といったところでしょうか。
悩ましいところです。
当たり前ですが、身長に対する胴の割合というものは、体重のように一朝一夕に増えるものではありません。僕は昔わりと痩せていましたが、胴長は胴長でした。ついでに言うと視力は悪かったため、席は大体前のほうにしてもらった記憶があります。
クラスで一位二位を争う胴長が前のほうの席。しかも身長はそれなりにあるため座高は堂々たるものがありました。字義通りの意味で居丈高とでも言いましょうか。
おかげで僕は教室のエアーズロックの称号をいただいていました。実に的を射た称号といえるでしょう。クラスメイトの厚い友情に涙を禁じえません(哀しみの)。
というように僕は昔から短足、というか胴長、というか座高の高さに悩み、苦しんできました。足長信仰Dに侵された世間の冷たい仕打ち(座席の背もたれがどこにいっても低い等)にも耐えて、せめて自分の中だけでもポジティブに生きようと思い、座高が高いと映画館とかで前の人の頭が邪魔にならないとか、人と対面で座ったとき相手を威圧できるとか、座ったままで遠くを見渡せるとか、自分が古式ゆかしき日本人を体現するものだとか、そう思い主張してきたのですが、悲しいかな返ってくるのはいつも微妙な苦笑だけでした。せめて笑ってくれるなら、僕も耐えられたのですが……そしていつも僕は枕を涙にぬらしていました。
そもそも僕が猫背なので上のポジティブシンキングが何も意味を成さないということもあるような気もします。残念なことでありますが、猫背は短足と違って自分の責任ですから、なんとも言い訳できません。
でもね! でもですよ! ひとつ言わしてもらうとね、座っているとき僕が背筋をしゃんとしていたら僕の頭だけ飛び出るんですよ! 悲しいじゃないですか。しかも身長が同じような人たちと座っててもですよ! 実に悲しいのです。
僕が今のように内向きな性格になるのも頷けることでしょう。それもこれもなにもかも世間の足長信仰Dが悪かったのです。あと郵便ポストが赤いのもですね。
しかし、ここ数年僕は風向きが変わっているのを感じるのです。
そう、風が僕に吹いてきているのを感じるのです。
誤解があるかもしれないので一応書いておきますと逆風じゃなくて、追い風です。当たり前ですね。
それというのは、ここ数年のえー、ヒップホップとかそういう系統のファッションの流行なのでしょうか、どうも流行に押し流されない確固たる自我を持つ僕にはよく分からないのですが、いわゆる若者の、とくに男のファッションに大きな変化があるように思われます。
これまでのファッションなら若者はなんというかこう、足が長く見えるような格好をしていたのだと思います。いや、昔の流行とかもっと分からないのですが、すらりとしたズボンをはいていたんだと思うんですよ、多分。もちろんズボンを下にずらしてはくなんていうことはありえなかったはずです。
しかし、ここ数年ありえないことが起こってきています。渋谷などの町に出かける流行に敏感な若者が、ズボンを腰の低いところまでずり下げては着こなしているという光景をよく見かけるようになりました。正直僕は最初このような光景が意味するところを理解していませんでした。なぜ、ズボンをずり下げるのだろう、という疑問しかわかなかったのです。そう、そのときは自分が短足でありながら足長信仰Dに侵されていたのでしょう。ズボンを下げたら短足に見えるのに、なんでわざわざそんなことをするのだろうという疑問しか思い浮かばなかったのです。
これは足長信仰Dの根の深さを意味しているのではないでしょうか。僕はずっと自分の短足に対してポジティブシンキングでいようと思っていましたが、ポジティブシンキングをしようと思うこと自体が短足が悪いものであると考えている証拠なのです。そうです、足長信仰Dに非を唱えながら、その実自分自身どっぷりと足長信仰Dに使っていたのです。
だがしかし、ある日渋谷を歩きながら、そんな若者たちを見ていたとき、先ほどの疑問に対する答えが天啓のごとく頭にひらめいたのです。目の前の霧が晴れたようでした。僕はその瞬間自分で悟りを開いたのです。
そうです、あの若者たちは短足に憧れていたのです。
なんというシンプルな答え。
しかしこれはシンプルでありながら、新しい時代の到来を意味するとても重要なことなのです。
考えてみれば当たり前のことでした。足の長さが足りない人はシークレットブーツで足を長く見せるでしょう。それと同じように、足の長さが余っている人は、ズボンをずり下げることで、足を短く見せているのです。
そう、価値観は変わったのです。
もはや足長信仰Dは時代遅れとなり始めているのです。
流行に敏感な若者たちは皆、短足に憧れています。しかし彼らは皆かわいそうなことに足がちょっと長すぎるために理想的なスタイルから外れてしまっているのです。しかし整形などで足を短くすることはできません。だからせめてズボンをずり下げることで、少しでも理想的な短足のスタイルに近づけるように努力しているのです。
そう悟ったとき、僕は長年の悩みから解き放たれた気持ちになりました。
そうです足長信仰Dも頑強であるとはいえ結局はただの価値観のひとつ、時代遅れの欧米信仰の残骸に過ぎません。そしてそれはいまや砂上の楼閣、崩れ去ろうとしています。もちろん、世代の上の人たち、そして僕のように流行をあまり気にしない人たちはまだまだ足長信仰Dの呪縛から解き放たれないでしょう。
しかし少しずつかもしれませんが、必ず社会全体が変わっていくはずです。流行を追うことはない人でも価値観には必ず影響を受けます。
これからは、誰もが、「短足」に憧れるのです。
新しい理想的なスタイルは、足長ではなく、僕のような短足になるのです。
確かに短足スタイルはまだまだ普及段階にあります。この文章をよんで、何を馬鹿なと笑う足長も覆いのではないでしょうか。しかし笑っていられるのも今のうちですよ。十年、いや五年以内には、きっとみんなが短足を理想的と思っているはずです。そしてモニターの前のあなたも、僕のような短足人間を見て、ああなんて素敵なスタイル、と思うに違いありません。
そう思うとなんだかとてもうれしくなって、いつもは鬱陶しい渋谷の人ごみもなんだか楽しく、そう自分はお前らと違って、未来の理想的なスタイルなんだと優越感に浸りながら歩いていました。とても素晴らしい気分です。
僕は今、五年後が楽しみで仕方ありません。
帰省します
暗闇のスキャナーが映画化されるらしいですよ!
予告編を見ましたが、アニメ……でしょうか。まあなんか結構面白そうです。
たぶんこれ日本で公開してもタイトルそのままスキャナーダークリーとかなるんだろうなあ。そして本のほうも何故か改題されたりするんだろうなあ。
しかしディックの作品は何でこんなにというぐらい映画化されますね。この調子でヴァリスとか聖なる侵入を映画化してくれたら楽しいのですが(別に嬉しくはない)。
普段見ているサイトに喪板のリンクがあったので飛んだら、気づけば三時間ぐらい見てました。同系統のしろはたというサイトと合わせてですが。
もうすごいやる気がなくなります。もともとないのにやる気がなくなるので、なんというか生命活動を司る領域まで浸食してきます。危険です。おどろくべきエナジードレイン
レスを読んでいる内にちょっと泣きたくなります。男の子なので泣かないですが。
板の雰囲気が感染してくると、だんだんアルフィーの歌詞ですら前向きすぎて聞いてられなくなりました。しょうがないので東方のBGMを聞き流す。
そして神聖モテモテ王国で癒されます。
だいぶ回復。
いやもうほんとに読むのよそうと思いました。電波男も買おうかと思いましたが、危険な香りがするのでやめます。少なくとも内容見てからにしよう。
という夜。
だんだんと寂しくなってきたような気もしないでもないですね。
まあいいや。
新歓に使うと思ったら実はそうでもないらしく、存在意義がよく分からないコピー本に載せるための原稿を描いているのですが、ペン入れが全然進みません。一日で三コマってどうなんだろう。しかもあと四ページ弱。どうしようもないですね。出来たとこまででだすかな。
ドロシーって誰だよって感じですが、僕も知りません。前上野の美術館でやっていたヴィクトリアンヌード展の目録に載っていた写真をもとに描きました。
今日ふと思い出して、東京都美術館で開催しているミュシャ展に行ってきました。アールヌーヴォーの偉い人の展覧会です。
平日なのですいているかなあという淡い期待を抱いて行ったのですが、そんな希望ははかなく打ち砕かれました。正直混みすぎです。まともに見るのがつらいぐらい人がいました。平日の昼に美術館に来るなんて、暇人どもが! と自分を棚の上に上げて思ってしまいました。いや、ほんと多いですね、暇人。
考えてみれば東京圏で一千何百万人もいるわけで、その内の数パーセントが平日閑で、更にその中のほんのちょっとの人が見に行きたいと思い、約一ヶ月半の開催期間のどの日かに来たとしてもすさまじい人数になるのだから、当たり前かもしれません。
東京は怖いという話です。
しかし年配の女性が多いのはまあ当然としても、若いカップルが意外に多いのが実に不愉快です。近所のかわいい子供の話なんかこんなところでしなくていいじゃないか。
女でも子供に手を出せば犯罪です。
ポスター作品は全般的に色あせていたのであんまり見ても楽しくなかったのですが、下絵が一緒に展示されているのも多く、比べて見ることができ面白かったです。あとサラ・ベルナール関係のポスターが思っていたのより五倍ぐらいでかかったのでビックリしました。
また、普通画集などではアールヌーヴォー関係の作品がほとんどですが、ミュシャ展では油彩画やパステル画、他には切手や紙幣のデザインなどあまり目にしない作品も多く見られてうれしかったですね。
スラブ叙事詩も下絵やアイデアスケッチのようなものが色々展示されていました。が、やはり実物が見てみたいですね。一作品でもいいから日本こないかなー。来るわけないけどさ。
というわけで今日の絵はミュシャの素描っぽい線を真似しようとして失敗しました。
しかし最近お絵描きまらそんのせいで寝る時間が遅くなっているので今日はさっさとあげて、さっさと寝ようと思います。
酒飲んで帰宅して適当に描いてアップしようと思っていたのに気がついたら二時間ぐらい経ってました。眠い。