2008年02月27日

すべる話、すべらない話。

なんとか秋刀魚という有名らしい芸能人の方が、お笑い芸人が面白い話をするのは当たり前なので、「すべらない話」という名前の番組がバカウケしているという状況はメタ的に見てお笑いぐさである、と難癖付けたそうですが(脚色有)。
ちょっとまて、ちょっとまてよ!。
その話には明らかに、すべる話は良くない! という固定観念が在る。
しかし待て。
それは正しいのか。お笑い芸人はすべらない話をしなければならないという考え方は本当に正しいのだろうか。そもそも、常識的に考えて、万人にとって笑えるネタ、という物は存在しない。AとBという二つのネタがあったとき、Aに笑えるけど、Bには笑えない人はいるだろうし、逆もまた然りだろう。無数のネタがある中には、百人のうち、千人のうち一人しか笑えないようなネタも出てくるだろう。
当然の結論として、お笑いの感受性には、無数のバラエティが存在する。まあ、多分。

さて、そういった点を考慮すると、すべる話を暗に否定することから、彼や同様の考え方をする人たちの恐るべき思想がかいま見えてくる。

すべる話が良くない=自分が笑えない芸人はダメ=自分が笑えない芸人を笑う人間はダメ=みんなが笑えない芸人を笑う人間はダメ=みんなが笑えない芸人はいなくなるべきなので、それらを笑う人間は笑いを楽しむ権利はない=みんなが笑えない芸人を笑う人間には基本的人権はない=みんなが笑えない芸人を笑う人間は列島劣等人種である=ゆがんだ思想を持つ少数派を処分することはみんなのために大事だよね!
21世紀の日本に旧時代の亡霊の再来が! ファシズムの発現である。というわけで、お笑いの批評をしている人間は全体主義者に違いない! きっと! という話です。
怖いですね。お笑いブームは劣等列島を吹き荒れるファシズムの嵐です。

とはいえ、安全に生きていきたい僕としては、寄らば大樹の陰、体制におもねるのが僕の信条です。長いものには巻かれろ。牛後となるも鶏口となるなかれ。先人たちは素晴らしい格言を残していかれました。ニュートンが言ったように巨人の肩に立ち、そういった偉大な知見の数々に則るのであるならば、興味なくともみんなが大好きなお笑いというのにも果敢に挑戦していくべきではないかと、そう思ったりするわけです。

というわけで、すべらない話ですべってみる。

今朝起きたらなんと道路に雪が積もっていたので、車のタイヤにチェーンを付けた。

あ、しまった。これはすべらない話ではなくて、すべらないようにする話だった。仕切り直しで。
スケートが快適にすべれるのは、体重によって刃の下の氷が少し溶け、薄い水の膜が出来るからであり、余りにも寒いととけないので上手くすべれない。

おお、これぞすべらない話だ。
調子が良くなってきたので、もう一つ。
スタッドレスタイヤは細かい切れ込みと柔らかいゴムでなんか水をはじいたり路面に密着したりするのであんますべらんらしいですよ! でも雨の日は夏タイヤよりよくすべるので気をつけて!

さらにおまけを一つ。
雪道ですべったときは、無理に体勢を立て直そうとするのではなく、上手く転んだ方が安全だったりするよ! そうしないと腰を変に捻っちゃったりするからね! あと周りの人間につかまろうとしたりするのはもってのほかだよ! みんなで転けるだけだから! でも考えてどうにかなる物でもないから諦めて!!

おしまい。

2008年02月26日

らくがき

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2008年02月24日

日々の動向

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「リボルテックフロイライン 遠坂凜」、を買ってみた。

べ、別に審査が終わったから買ったんじゃないからな!
という事を書こうかと思ったが、いかんせん時間がたちすぎて残念な感じだ。買ったのは本当に審査の前だけど。

最近は美少女フィギュア界隈でもアクションフィギュアが色々出てきているようです。でまあ、お値段も手頃なフロイラインを買ってみた。綾波レイは売り切れていた。ちなみに遠坂凜はFateというエロゲーに出てくる、魔法とかを使って格好良く戦うカワイコちゃんです。二度見る。
感想。
とりあえず、造形は結構凄いなあと思った。それなりにちゃんと可動する上で、キッチリらしいフォルムになっている。スカートで見えないけど、腰のラインが綺麗です。ウエスト細すぎ。私脱ぐと凄いんです、という感じで。上半身もタイトな服なので身体のラインがハッキリ出てる。いやらしいワ。顔も、まあ、カワイイ。ツインテールにもジョイントが入っていて怒髪天をついたりも出来る。
という感じで、とりあえず先に良かった探しをしておく。
で、残念なところ。
最大限綺麗なフォルムにし、関節を目立たないようにした上で、それなりの可動。という順番で優先順位が在るように見え、正直弄っていると結構ストレスがたまる。例えば肩関節なんかは、上手く動かせば結構可動範囲は広いので、良くできているとは思うけど、トリッキーな上に物凄く簡単に外れるのでイライラする。スカートは柔らかいとはいえ、制約が大きいし、ムリに動かすと、やっぱり簡単に外れる。髪がでかくて色々引っかかるし、支えている棒にも干渉する。いらいらいら。
こういう可動フィギュアで、何が楽しいかって、格好いいポーズを取らせたり、カワイイポーズを取らせたりすることだと思うんだけど、とにかく制約が大きくて上手くできない。パッケージのポーズが再現できません。どうしろっちゅーねん、という感じだ。
頑張って、そこそこ決まったかと思うと、今度は顔がね。顔がダメなんですよ。確かにカワイイかも知れないんですが、なんというか茫洋としているというか。一体何処を向いているのかわからない、締まらない顔なので、どんな格好をさせてもなんとも決まらない。
というわけで、立たせてちょっと手とか足とかで表情を出すぐらいなら、まあ、良いのかも知れませんが、色々動かして遊ぼうとするとガッカリ感がつのります。
正直figmaのほうが動かす分には面白そうだなあと思いました。リボルテックよつばを買えという話もある。

いや、色々文句書いてますが、正直二千円しないでこれだけの物が手にはいるというと、凄いと思うし、がちゃがちゃ遊んだので、値段分は十分楽しめたとは思います。
しかし、せめて顔がなー。もうちょっとなんとかならんのかと。
で、これどうしよう。


アニメを見る。
今クールでは、俗・絶望先生と墓場鬼太郎をみる。
絶望先生は実験アニメ度合いが強まっていて面白い。その割にはまとまりが良い。何をやったも作品から逸脱しないという懐の深さは原作に由るところだよなあ。そういえば一クール目のアニメ化決定の時に云々言われてたけど、個人的には改蔵より絶望先生の方がずいぶん面白いと思ったりする。ネギまシステムってスゲーなと思う。それをやってしまう作者はもっと凄い。
墓場鬼太郎は原作そのままというが、面白すぎて困る。なんだこれ。全く展開が読めない。毎回毎回エーッてな感じで、愉快な方面で裏切られる。人命がまるで紙のようだ。水木さんカムバック。EDはねーな、というのはある程度同意できるが、好評なOPもさりげなく大概だったりしないだろうか。面白いし好きだけど。

あと、ハヤテのごとくのアニメを三十話程度まで見る。んーむ。前は、こう、なにか色々抵抗は在ったけど、僕もコレを楽しめるぐらいには魂の位階が上がりました。キャラクター人気投票の順位は大体得心がいくぐらいには。
結局漫画の方が好きですが。
そのうちアレやらコレやらも楽しめるようになるかなあと、期待したりしなかったり。


ずっと読んでなかったラブやんを、ひさびさに読んでビックリ。選択肢が順調に消えつつ在るわけですね。なんというか、作者は手心を加える気はないのでしょうか。今更だけど。
最新刊は読んでないんですが、どうなってるんだろうなあ。

久々にエマ全巻を読み返したり。ああ、森薫の漫画は偏執の香りがして最高だ。そろそろ最終刊が出るんかな。早くでないかなあ。あとはヴィンランド・サガをまた読んだり。ヴィンランドが中々絡んできません。
新刊読みてー。


ガッガッガッ
と、パソコンが欲しいなあと思うが面倒くさい。でももっと性能が欲しい。なんかこう、余りにも高速に動くので、残像で分身して見える程度には。ガッガッガッ。まあ、なんか。動画がカクカクするのは悲しいよね。悲しいなあ。そういえば、中学生の頃音に聞いたmp3なる音声圧縮のフォーマットを試したら、ノイズが入りまくってまともにエンコード出来なかった。あれ、デコードが出来なかったんだっけ? で、高校入って買った新しいPCで試したらもう、とても綺麗な音楽がスピーカーから流れてきたので感動した。ああ、PCは日々着実に前進していることを実感したなあ。あの頃は4GのHDDが大容量で8Gのものなど、一体何を入れるのかという気分になったけど、いまじゃあiTunesのライブラリだけど軽ーくオーバーしてる。
ってまあ、遡れば40Mが大容量だったり、そもそもHDD何か付いてなかったりと、幾らでも遡れるんだけど。自分の経験として実感があるのはやっぱり中学生以降だよな。
新しいPCでバーチャファイター2を最重設定でやってもなめらかに動いて嬉しかったり。1080が出来ないので、Supreme Snowboadingでひたすらコースアウトできるポイントを探したり。空気遠近法やって欲しいなあとおもったり。
まあ、そんな感動が欲しい。
お金はかけたくないけど、今の三四世代は前のCPUだし、何を買っても爆速街道を突っ走れると思う。比較問題という意味で。ベンチマークなんて気にしない♪ んで、静かなヤツ。もうこれいい加減うるさいし。うるさいというのは結構問題で、静音なケースとかにしたいけど。高いのよね。金あんまりねーもんな。でもメモリもかなり値段が下落しているみたいだし。ビデオカードもまあ、DVI出力が在れば、そこまでこだわるつもりもない。音もUSB音源があるから流用すればいいし。意外と安くできるのかもなあ。
あとは、HDDVDも息の根を止められたし、BD込みとかどうかと。
いや、嘘。買う訳ねー。かねーし。
ズガシャーンって動かないかなあ、自分が。寝てる間とかにさ、ネットを使ってパーツの選定してさ。あと注文も。で昼寝をしてたら組み立ててOSのインストールとかやってくれんのよ。なんかそんなドラえもんの道具があった気がする。
まあ、ドラえもんの道具は思いつくような欲求を満たす物は十中八九ありますが。
めんどくさいならBTOとかで良いじゃないか、とそんな気がする。

2008年02月17日

500

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こうして日記を書く僕はまるで、ニッキ男のようです。


ちょっと面倒くさいことを、ちょっと面倒くさいからと一ヶ月ぐらい放置したりしていると、気が付いたら結構面倒くさいことにジョブチェンジしていたりするので油断なりません。どうせたいした手間ではないのだから早め、早めに片付けていけばいいと、まあ思うのは誰だって思うんでしょうが。
今回のは、また別に存在に気が付かない間に勝手に結構めんどくさいことになってしまっているのもあったので、あわせれば手間は変わらないので、いいやということにした。
そんなんで結局三日連続秋葉原、神田方面に行ったのでちょっと疲れた。必着ということは、消印有効じゃないんですよね。面倒なことです。


電子レンジはヨドバシで六千円台のものが売っていたので買ってしまった。配送頼むのもお金掛かるし即日で使いたかったので、持ち帰ったが結構きつかった。そういえば、今の液晶モニタを買ったときもこんな風に後悔したなあ、とめまぐるしく持ち方を変えながら思った。そして肩と二の腕の辺りが筋肉痛。2(ツー)!!
最近の製品はオーブンレンジが殆どで単機能レンジなんて選択肢がほとんどなかった。結局解凍とあたためでワット数を二段階に切り替えられるメカニカルなタイマーを持つLG製品を買った。まあ、足が短いとか、ターンテーブルのつくりがいい加減とか、説明書が微妙とか、値段相応だなあというのが正直なところですが、暖まるので問題はない。
安物買いの銭失いという言葉はあるが、機能が値段相応なら安物じゃないはず。ということにしておこう。

そういえば今使っているキヤノンのスキャナーとプリンタの複合機、約一万五千円は、機能はまあともあれ、インクが物凄い勢いでなくなる、且つ、インクがイヤになるくらい高い(黒だけで二千円程度)という素敵仕様、更に言うと他社の廉価のリサイクルインクすら売っていないマイナー機種で、ランニングコストを考えると、本当に銭失いだった。
今は、詰め替え用インクを使っているので、バッチシですが。
使ってビックリしたのですが、詰め替え用インクというのは、カートリッジにぐりぐりと穴を開けてそこにインクをつっこむという力業なものなんですね。詰め替え後幾らクリーニングをしても印刷が乱れるので、アルコールでヘッドを拭いてみたら綺麗になった。
こんないい加減で良いんだなあ。

というわけで、最近の電子なレンジはピーっとなりますが、コノ単機能レンジは伝統に従いチンッ♪と鳴ります。レンジでピーするピーピーポテトというように時代の流れでアダルトな雰囲気になってしまったアレも、レンジでチンするチンチンポテトと、半袖半ズボンで校庭を走り回る男子小学生のギャグセンスみたいな感じになりました。


壊れたレンジ、新しいレンジの箱、片付けようとひろげた本とか漫画とか、洗濯物、というかんじで部屋が散らかっています。不思議です。いや、散らかっているだけだと不思議なわけではないのですが、なんと、部屋が散らかっているというのに食事のことを考えないといけません。不思議というか、なんかこの部屋だけロジックがねじ曲がっているような気がします。
皆さんの先入観にまみれた精神からすると何がおかしいのかわからないかも知れませんので、論理学的な手法を用いて、説明させていただきたいと思います。
たとえば命題Pを「部屋が片付いている」だとすると¬Pは「食事ぐらいはどっかから出てくる」です! 嘘はつかない僕が僕は嘘をつかないというところの僕が言うのだから間違いありません。だって嘘はつかない人が嘘はつかないと言った人は嘘はつかないから、これは絶対に正しいのです!
するとPの真偽は簡単にわかります。イスをまわして部屋をぐるっと見渡せば良いだけです。すると部屋が散らかっているからPは偽だということがわかりました。さてPが偽であれば当然¬Pは真でなければなりません。しかし、実際にそうしたように僕は自分で食事を調達しなければならないので、¬Pも偽!
なんてことだ! Pと¬Pが同時に偽になってしまった!! なのに前提は絶対に正しい……
……ゴクリ……

僕は数学に終止符を打ってしまったのかも知れない……


これでエントリー数がちょうど500だった。まあ、公開にしていないエントリーも含めてなのであんまり意味のある数字でもないのだけれど。
きりはいいですね。

2008年02月15日

nikki

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また電子レンジが壊れやがったぜ!
しかも前と同じでスタートボタンが効かなくなっている。前兆も何もないし、機械的には壊れていない。しかもスタートボタン以外は全く異常がない。どうなってるんだ。
そうか。
これは、シャープタイマーだ。
シャープの電子レンジは平均二年で発動するシャープタイマーが仕掛けられているんだ。つまり、コレは故障じゃなくて、仕様なんだ!! そうだよな、日本が誇る家電メーカーがそんな数年で壊れる製品を作って売るわけないしな!

しかし、もう補償切れているしなあ。修理もアレだし。
今度は本当に電子レンジの機能しかない、アナログタイマーな単機能レンジを買おう。それなら一万円しないし。

ああ、それにしても、なんだかアレコレ物いりだなあ。
パソコンを買いたいのになあ。


すぐそこにあるサンクスでお買い物をしたら、店員さんが、サンクスからのチョコレートです、とかいってチョコレートをくれた。これはあれだネットで見た
コンビニで女性店員のレジに並んでチョコレートを会計してお金を出した後品物を持たず店を出て、「お客様!」といって追いかけてきた女性店員に、「え、オレに? いいの? うれしいなあ」とかいってチョコレートをもらった気分になる裏技
みたいだなあ、と思った。もったいないの精神を実践する僕は、施しなどいらぬ!! とかいってたたき返したりはせず、もらえる物はありがたくもらったのですが、一口喰ったらちょっとというか、積極的に美味しくなかった。残念ね。

確かにバレンタインデーだなあ、ということでかみちゅの15話を久しぶりに見た。あーおもしろいなあ。1話と15話は屈指の完成度だ。いや、途中の話があるから15話が引き立つのだけれど。

2008年02月12日

anticlimax

と、格好良くENGLISHで書いてみる。

今日の日記を、このサイトを見ている秒刻みでスケジュールをこなすエルィートのためのエグゼクティブサマリーとして一行で要約すると、審査がありました。以上。

発表はアレでしたし、質疑応答の応答の辺りもかなりアレだったんですが、その辺は、受験生時にセンター本番を除けば、模試も二次試験でも自己採点したことがない私としましては、過去は、振り返る物ではなく、忘れ去る物であるという原理原則真理に立ち返り、たった今忘れました。
今日何かありましたっけ?

さて、今日在った何かは良いのですが、昨日までの私はそれに向かって雄々しく駆けるバッファローのような存在でした。ただ振り返ることなく猪突猛進で走り続ける、レミングのような存在でした。
何かが終われば、そう、それさえ過ぎれば、何か変わるはず。この何ともいえない腹につもる澱を吹き飛ばす流れが僕の心にやってくるはず。そんなリリカルな信念を胸に、昨日の夜、不安感とたたかいながら、それだけを頼りにグースカ寝ていたわけですが。

そう「 」は、大変な物を盗んでいきました。
僕の解放感です。

我慢に我慢を重ねて駆け込んで用を足したというのに、あり続けるこの残尿感! ストレスを与えて、与えて、与えたというのにやってこないクライマックス。あの、心が空っぽになるような状態は、どこへいったの?
だめですよ、コレ。この一ヶ月を物語としたら、プロットとしてはバッテンです。及第点に達していません。読んだ人は納得いきませんよ。見た人も残念賞!! 時間の無駄でした。ああ、そうとも、ガッカリですよ。金返せ! 金を返せ! リターンマネー(返金してください)!!
そんな怒号が場内に響き渡りました。
ちょっとまってよ! お義理で良いから何かないの? 僕を解放してくれよ! スッキリさせてよ! なにもないのかよ! 
解放感は? 安心感は?(金曜日までありません) 

さて、ここで、プロットの問題点について語りたいと思います。これは、僕の熱い情念の時系列変化を理系らしくグラフで見ると、何処に原因があったか一目でわかります。

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そう、大事なのは、この落差なのです。
ギリギリまで、ギリギリまで間に合うかどうかの不安になりながら睡眠時間を減らしタダひたすら液晶モニターに立ち向かう戦い。あと、十時間、あと六時間。刻々と迫り来る発表時間。いそがないと、いそがないと、ヤバイヤバイヤバイ、ストレスで胃はもたれ食欲もなく、睡眠不足で頭もくらくらしているが、しかし寝るわけにはいかない。今ココで寝たら、全ては終わり。もう一年、もう一年繰り返すことになる。そう、丁度一年前、研究室を休み、あまたの会社を巡り、ようやく得た内定。この数ヶ月、何とか形にしてきた研究も全てはなかったことになる。リセット。
振り出しに戻り、も、もう一度やり直し。
そんなのは嫌だ! 絶対に嫌だ!
あと三時間。論文は何とか形になった。アラはいっぱいあるけど、先生方もそこまでつっこんでは見られないだろう。次は発表資料だ。アウトラインだけは書いたが、まだまだ、スカスカ。一枚一分としても、最低25枚は埋めないと行けない。
背景
残り二時間半……
関連研究
残り一時間五十分……
提案手法
残り一時間二十分……
実験
残り一時間……
まとめ
残り五十分……
終わった! ついに準備が終わった! 発表練習は出来なかったけど、きっとどうにかなるはず。そうだ、僕は本番に強いんだ! ……ということにしておこう。
ううしかし、もう集中力も限界だ……。寝たい、一時間でも良いから寝たい……でも寝たら……寝たらおしまいだ。自力で起きる自信はない。いや、起きない自信しかない。そうだ、とりあえず、会場に行こう。会場で寝てしまっても、先生が、おこしてくれるはず……。
って、ああ!! しまった! 発表資料を印刷しないと!!
……結局、教室に着いたのはギリギリになってしまった、心の準備が出来ないが、当たって砕けろなんだぜ!!

終わった……。何とか終わった……。なんとか、だいたい25分だった。質疑応答も、まあ、川の流れのように時間は流れた。そうだ、もう終わったんだ。もう、審査まで時間がないと思うことも、どうしようどうしようと焦る必要もないんだ。
もう、おれは、自由なんだ。自由、
おれは、じゆうだあああああ!!!!!

ということがあれば解放感も感じるのでございましょうが、多少時間的に余裕がある状態で論文も発表の準備を終わらせることができたので、なんというか、心の情熱の落差がないのです!
落差の大きさの落差の大きさ乗が、カタルシスの大きさに比例するのです。前日布団の中で不安に駆られたぐらいの僕では、心の情熱の落差が小さすぎたのです。そのために解放感も感じず、日常の地続きとしての審査後がただ、ダラダラと続いているだけ。
僕はあまりに前々から不安を感じすぎました。心の情熱の盛り上げ方を間違えたのです。カタルシスを感じるための、タスクの処理配分も間違えてしまったのです。明日やれることを、今日やってしまう、そういう心の堕落が、僕をアンチクライマックスへと導いてしまったのです。
僕の解放感を盗んだもの、それはまさしく僕自身だったのです。

しかし思い返してみれば、最近の僕はそんなことの繰り返しでした。未来に存在する締め切り、発表。そんな物をあまりにおそれていました。直前に焦ることに、睡眠時間を削り間に合うかどうかと言う焦燥に駆られること、それ自体をおそれていました。早く、なるべく早くこなしてしまえば、不安も感じない、焦る必要もない、心安らかに、生きていける。そう信じて、僕はカタルシスを感じるための前提条件から逃げてしまっていたのです。
その結果がコレです。なくしてしまった、達成感、安心感、台風の後の雲一つない抜けるような青空、のような気分。
解放感。
いつからか、僕は感じなくなっていました。最後にそれらを感じたのはいつか、学部時代の試験期間後だったか、もうあまり思い出すことも出来ないです。趣味の漫画ですら、余裕を持って原稿を完成させてしまう始末。
僕は堕落してしまった!! 明日出来ることを今日やるような僕には、そのような熱い人間的感情には値しないのです。
ああ、もう、あの頃のような、揺れる心の振幅は、手の届かない頃にいってしまった。
僕も大人になってしまいました。

でもカタルシスなくて良いから、余裕持って終わらせたい。
率直に言ってそう思ってます。

2008年02月11日

「ウコンの力」の一文字を入れ替えると大変なことになりますね!!

そんなことを昨日強く実感いたしました。
何があったかといいますと、昨日所用がありまして、ここではないどこかへと出かけたのですが、その途上、乗換駅で鈍い腹痛が僕を襲いました。
ああ、これは、あれだ。
大腸がTime Place Occasionを、わきまえずに全力を尽くして活動を始めたのだ、ということに、聡い僕は即座に気が付きました。寒いし。そこで、
そうだ、ご不浄にいこう!
と、おもってその次の乗換駅でご不浄を訪れたのですが、なんと! 休日だったからか、どこもかしこも埋まっているじゃあ、ありませんか。ああ、でもまだ括約筋が何とかしてくれる、多分、という状況だったので、とりあえず次へ行こう。時間もないし。
そう思った僕は、次の、駅、目的地の駅へ、行ったのですが、なんと、その日就活イベントが開催され、スーツ姿の若人が、ハエの如くご不浄に群がっていました。列を成して。
こまったぞ、目的地までもしかしたら僕は間に合わないかも知れない。いや、でも僕は諦めない。
人の目が前に付いているのは、いつも前を向いて歩き続けるためだから!
だからきっと多分馬は後ろ向きに歩いたりするんだろうなあ。
そんなことを思いながら、早歩きをしていた僕は、何と、目的地への途上にいかにもトイレの在りそうな建物を見つけました。ああ、日頃の行いが良いとこういうこともあるんだなあ、きっとスーツ姿の奴らは、ココに気が付かないに違いない。
ふへへへへ。
と思い、荒ぶる下腹部の御魂を努力と根性で鎮めつつ、括約筋に檄を飛ばし、その建物の中のあまり誰も使っていなさそうな二階のご不浄へと足早に急ぎました。
ああ、もう、ここが、ダメだったら、僕は成人男性としての尊厳を諦めなければならない……どうか! と、祈るように、願うように入ると、
個室は全て埋まっていたので、
ああ、もう……神も仏もいないのか!
というこの不条理な世界への絶望が僕の頭をよぎり崩れ落ちそうになった瞬間、がちゃりと一番奥の個室が空いてスーツ姿の男が出て行ったので、素早く個室を確保し、もろもろの後、事なきを得ました。
そして、開放感に浸りながら、ああ、「人事を尽くして天命を待つ」というが、人事を尽くして空いているご不浄を探した僕に、天は応えてくれたのだ、と感動いたしました。
こうやって、人は信仰心を深めていくのでしょう。
人生についての洞察がまた一つ深まった冬の一日でした。

2008年02月07日

javascriptについてのメモ

思うところがあり、javascriptをいじっています。
javascriptは言語としてより、サイトを作る上での気の利いたTIPS♪みたいなのが多いので、適当なリソースが見つかりにくくて知りづらいなあとちょっと思います。それでもAJAXが一世を風靡して以降はかなりいろんなリソースが日本語でも手にはいるようです。それでもDOMの話などが解説に混じっていることが多くて……
とりあえず、DOMとかそういうゴチャゴチャしたのは置いておいて、演算子とか制御構文も多分大体わかるので置いておいて、全くわからないし使ったこともないプロトタイプベースのオブジェクト指向というのを知っておこうというのを目標にしてみました。
というわけで、わかったことを自分用に適当にメモ。間違っているかも。あとスクリプト部分に処理していないので読みづらいです。

まずjavascriptで関数を定義する方法は主に三つ。

function a(arg){hoghoge};
a = function(arg){hogehoge};
a = new Function(arg,"hogehoge");

三つはだいたい、同じ。ただし、三つ目はクロージャとかで上手くいかない。

javascriptのオブジェクトは全て連想配列(辞書)である。
メソッドは連想配列の値として代入された無名関数である。メンバは適当な値。例えば、
var obj = {member1:"a",
member2:100,
method1:function(){return "b"},
method2:function(){},
};
alert(obj.member1) // a
alert(obj["member1"]) // a
alert(obj.method1()) // b
alert(obj["method1"]()) // b

となると当然複数のオブジェクトで全く同じ無名関数を共有することもある。そのためメソッド内でオブジェクトのメンバを参照するために、thisというコンテキストオブジェクトを用いることになる。thisには関数を呼び出したオブジェクトが代入されている。
関数を呼び出したオブジェクトというのは

object.method(...) の object
func.call(object,...) の object
func.apply(object,[...]) の object
イベントが起きたときの、イベントハンドラをプロパティに持つイベントターゲット。

の四つの場合らしい。DOMと関わる最後のが分かりにくいなあ。
上の二つの場合を例にすると

var a = {member1:"a"};
var b = {member1:"b"};
a.print_member1 = function(){alert(this.member1)};
a.print_member1() // a
a.print_member1.call(b) // b

となる。
ブラウザ上で実行するとき、トップレベルではthisにwindowが代入されている。
alert(window == this); // true

オブジェクトの作り方は上記のようにリテラルで連想配列をつくることと、コンストラクタを使うやり方がある。
任意の関数はnew func(...)という形で呼び出すことでコンストラクタとして呼び出される。new func(...)で呼び出されたとき、まずthisにfunc.prototypeを暗黙に参照しているオブジェクトが代入される。で、適当に初期化をしたあと、返値としてthisに代入されていたオブジェクトが返される。
prototypeというのは全ての関数(Function)が持つメンバで、その関数をコンストラクタとしてつくられたオブジェクトはprototypeを暗黙に参照する。暗黙に参照するとは、オブジェクトが持っていないがprototypeが持っているメンバ、メソッドが呼び出された場合、そちらが実行される。ただし、代入など破壊的な操作に関してはそのオブジェクトでメンバがつくられる。全てのオブジェクトはObject.prototypeを暗黙に参照している。うん、訳わからん説明だ。

var Constructor = function(arg){
this.a = arg;
};
Constructor.prototype = {a:"hoge",b:"hogehoge"};

var a = new Constructor("aaa");
alert(a.a); // aaa;
alert(a.b); // hogehoge;
Constructor.prototype.b = "hogehogehoge";
alert(a.b); //hogehogehoge
Constructor.prototype.a = "hoge...";
alert(a.a); // aaa;
a.b = "bbb"
//破壊的な操作を行ったため、bというメンバがaに出来て、prototypeへの暗黙の参照がなくなる。
alert(a.b); //bbb
Constructor.prototype.b = "hogehogehogehoge!!!";
alert(a.b); //bbb

という感じか。
つまり、クラスは存在せず、コンストラクタだけが存在する。new でコンストラクタを呼び出すことで、prototypeを参照するオブジェクトが生成され、それをコンストラクタ内で加工した後、呼び出し元に返す。イメージとしてはprototypeをコピーして必要なところだけ代える、という感じ。
ただ、連想配列のメンバをprototypeでつくると、複数のオブジェクトで同じ物が参照される可能性があるので、メンバは基本的にコンストラクタ内で初期化するのが良い。一方メソッドをコンストラクタ内でつくると、コンストラクタを呼び出す毎に関数オブジェクトが生成されるので、プロトタイプにつくるのが良い。

Aを継承したBというオブジェクトのコンストラクタをつくりたいときは、
var A = function(){};
var B = function(){};
B.prototype = new A();

とする。このとき
var c = new B();
alert(c instanceof B) // true
alert(c instanceof A) // true
alert(c instanceof Object) // true
alert(B instanceof A) // false

あとAを関数を返す関数にすると、new A()で返ってくるのは関数オブジェクトになる。このとき同様のことを行うと
alert(c instanceof B) // true
alert(c instanceof A) // false
となる。ちゃんとthisに代入されているオブジェクトを使わないとダメみたい。


ブロックスコープはない。
var a = 1;
{
var a = 2;
};
alert(a); // 2

ブロックスコープを扱う場合は、関数を用いる。
var a = 1;
(function(){
var a = 2;
})(); //無名関数をつくり、その場で呼び出し
alert(a); // 1
うーん、トリッキー。新しいバージョンで導入されたletを使えば、このあたり色々楽に出来るらしい。

関数はクロージャになる。クロージャは環境(変数とか)を保持する。
var func = (function(){
var a = 1;
return function(){return a;}
})();//aの値を返す関数を返す関数をつくり、その場で呼び出し
//ここ return new Function("return a");だと最後の出力が2になる。
var a = 2;
alert(func()); // 1
となる。これを利用すると、プライベートメンバのような物が実装できる。
var Counter = function(){
var count = 0; //普通はthis.count = 0とする。
this.inclement = function(){count++;};
this.value = function(){return value};
}
var c = new Counter();
c.inclement;
c.inclement;
alert(c.value()); // 2
// alert(c.count); // Error

となって、幸せなときもあるようです。
しかしこのとき上手く継承を使う方法がよくわからない。Counterを継承するCounter2をつくるとき

var Counter2 = function(){}
Counter2.prototype = new Counter();

としてしまうと

var d = new Counter2();
var e = new COunter2();
d.inclement;
e.inclement;
alert(d.value); // 2
alert(e.value); // 2

というように、dとeが同じcountを参照してしまう。当たり前という気もするけど。コレをどうにかする上手いやり方はあるんだろうか。

以上javascriptのオブジェクト周りについてとりあえずわかったことを適当にまとめてみた。印象としてはクラスベースに比べてシンプルでスッキリしていて柔軟な分、凝ったことをやろうとすると捻ったやり方になるような感じがする。
コンストラクタとかは何とも無理矢理な感じもしてしまうけど、オブジェクトは全て連想配列である! というのは目から鱗が落ちた。
クロージャも何だか素敵ね。

2008年02月04日

コミティア83に

多分、参加します。そ25bです。
印刷はしてないですが、一応原稿も出来ました。
表紙は↓みたいな感じ。

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僕たちの明日は未来だ!
みたいな何とも云えないテンションの絵になってしまいました。コレを一体だれが手に取るんだろう。色々考えた結果がこれなので、ちょっとどうかという気もします。
あと、何処に題字をいれるか想定していなかったことに気が付きました。

中身は↓
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という感じで、終始ローテンションの割と真面目にミステリー風味です。出来たあと通して読み返したら、ネームの多さと間のなさにビックリしました。なんだこれ。

二日後が審査なので、そちらの方がきつそうなら行かないかも知れません。あといつもながら印刷が面倒です。

どくしょかんそうぶん

■安田 理央、雨宮 まみ「エロの敵」
昨今、エロ本、エロ小説、AVなど不況に強かったはずの下半身メディアがかなり厳しい状況になってきている。それは何故なのか、いったいなにが敵であるのか、ということを歴史を踏まえながら考察している本。
ヘアヌードブームやら、インターネットによって、裸の画像、動画が無料で手に入り希少価値が無くなってしまったというのが、結局原因のよう。しかも正規のルートで流通しているAV等が、規制によってモザイクがかけられているのに対し、無料で手に入る動画などは無修正であったりする。タダなものの方が過激というねじれ現象がおきている。
いまや回線費だけで、欲しいだけエロ動画が手に入る。お金を払うだけアホらしい、という風になれば当然エロメディアは窮してしまう。
ということでした。敵は、裸の価値の暴落。
まあ、まさしくその世代の人間としてはそうだよなあ、としか言いようがない。PCあるいは携帯で十分事が足りるならお金を払う人は少なくなるのは当然で。結局大体は出すまでの問題ですしね。既存のメディアに残るのは、もともと読者だった人で、平均寿命が毎年一つずつ上がっていく。エロ小説雑誌は年々読者が減っているらしい。寿命で。
そういえば、エロサイトもWEB2.0の流れが来ているようで、とくに海外ではPornhubやらXTubeやらまあ、動画共有型のサイトが色々あるようです。YourFileHost.comもアレですね。YourAVHostとかいうマッシュアップサイトが出たりしてます。みんなエロが大好きです。
しまった、これじゃまるでエロい人みたいだ。

まあ、なんというか、お金をみんなが落とさなくなったら、誰が供給するの? みたいな話になって、いろいろ構造は変わっていっているんでしょうけど、どうなるんでしょうね。
世に猥褻の種は尽きまじ、とはいいますが。
しかし、河原におちている水を吸ったエロ本という原風景が、通じない世代はもうそこまで来ているのかも知れません。寂しいことです。

それはともかく本書内のAVの項目を描いている人が、本のテーマをさておいて熱く熱く熱くAVについて語りまくっているのが結構面白かった。脚注の充実っぷりが尋常じゃない。

■アゴタ・クリストフ「悪童日記」「二人の秘密」「第三の嘘」
これは素敵。
戦争中に、育てられなくなった母親は双子の息子を祖母の家へ預けるが、祖母は街で魔女と言われていて、双子は皆から迫害を受けてしまう。戦争と迫害の中を双子が生きのび、成長していく話。
日記という一人称視点の語り口でありながら、思考や感情を廃し、ただ事実だけを書いていくという形式が面白い。淡々と書かれた日々の記述をよみながら、何が起こったのかを、二人が何を感じたのかを読み取ってい無ければならない。双子はどれほど怒りを覚えても、悲しみを覚えても、あるいは楽しくても全て客観的な記述の中にすべてを隠してしまう。しかし、それでも、隠せない感情がその中から見えてくる。
そして何より主人公の双子の恐るべき強さ。僕らのうちの一人ともう一人の極限的な状況の中で発芽する冷徹で揺るぎない価値観とそれを支える天才性が非常に心に残る。
というのが「悪童日記」。

「二人の秘密」「第三の嘘」はその後の二人の物語。しかし読んでいるとなんとなく違和感を覚える。そしてさらに読み進めるとぶん殴られるような衝撃を受ける。この作者、長々と書いて積み上げていったものを一ページ、一行でひっくり返してしまう。読者が読むために築いた立ち位置をアッサリと突き崩してしまう。
それがとても気持ちが良い。
気持ちよく壊してくれる。
僕は「第三の嘘」を読み終わったあと、しばし呆然としてしまった。

著者の亡命体験が元になっているという事もあり、簡潔に書かれていながら、とても真に迫っている。淡々とでなければかけないような体験だったのかな、と思ったりする。

■アゴタ・クリストフ「昨日」
「悪童日記」三部作と同様に著者の亡命体験が下敷きになっている物語。隣国へと亡命し、時計工場で働く主人公は運命の女性リーヌを待ち続ける。というお話。「悪童日記」ほど衝撃的ではなかったが、これもなかなか凄かった。

どうでも良いんですが、小説中に時計工場でひたすら同じ部品の同じ場所に穴を開け続ける主人公や、神経をやられてしまう女性のことが書かれてました。
で、前からずっと思っていた、「エロフィギュアの彩色って、誰かが人手でやっているんだよなあ」というのが合わさって、きっと中国の貧困層のいたいけな少女がエロフィギュアの乳首に綺麗なピンクのグラデーションを一日中いれてるうちに頭がおかしくなりそうになったりしているのかなあとか考えたりしていた。
僕もどうかしてるわ。

■岩波明「うつ病――まだ語られていない真実」
うつ病は「こころのかぜ」というような生やさしい者ではなく、容易にしに至りうる恐ろしい病である、ということを様々なケーススタディをもとに語り、薬物療法にもちいられる薬、そしてその意義などについて語っている本。
また、増えている自殺の原因として、日本特有の問題も語っている。

というわけでヘミングウェイをはじめとして、でてくるでてくる恐ろしい症例。自殺、無理心中、放火と命に関わるようなもののオンパレード。そしてまた、妙に語り口が生々しい。あるいは、面白いとも言う。実際に事件にまでなったものが多いので、生い立ちから書かれているが、やはり必ずしもらしい人がなるわけではない、というのを見ると、自分も気をつけないと、と思わされる。

器質的なものはしょうがないとは思うが、経済面、生活面から追い込まれないようにはしないと行けないなあと。「隣の家の少女」とかでも思ったけど、お金は大事だよなあ。ありがたいことにこれまであまりせっぱ詰まったことはないけど、これからは自分でどうにかしないけないしな。金銭的な余裕はなるべく持ちたいよなあ。
そうでなくとも、すくなくともなにか逃げ道は常に用意しておくべきだな。出来れば物質的、すくなくとも精神的というか考え方というか。紙はいつも僕らを見ているのですよ!!

紙は我らの天にあり、なべてこの世は事もなし。

■勝間和代「お金は銀行に預けるな」
というわけで、最近売れているらしい金融リテラシー本を読んでみた。基本的にこの手の本は書いてあることは一緒だなあ、って、本によって書いてあることが全然違っても悩みますが。あ、「マネーはこう動く」はわりとそうか。でも「今」やるべき事を書いてているのと、わりと普遍と考えられていることを書いている、ということだろうか。どの程度リスクを取るかという話かな。
というわけで、金融リテラシーの大事を語り、金融商品別に説明をして、どう実践するかまで書いている。とにかく何はなくとも先ずは、分散投資。あとはリスクを管理しろ、とかまあ、そんな感じ。
わりと具体的な情報源の在処や行動までかみ砕いて説明しているのは、ありがたいです。

こういうのは手を動かして実際にやってみないとわからないとは思うんですが、まあ、お金もないしなあ。講座ひらいてもすぐ住所変わるから面倒くさいし。
とりあえずはまあ、楽しめる範囲で類書を読んでみよう。

■ 藤巻 健史「マネーはこう動く」
タイトルが格好いいですよね。マネーですよ。マネー。お金とかそんな日本語な言い方ではなく、マネーです。「お金はこう動く」じゃあ、なんだか諭吉さんが右から左へ動いているという印象ですものね。やっぱりもっとスケールの大きなお金を表すときには、それ相応の言い方がなければならないですよね。
タイトルが格好いいので買ったんですが、読まないで放っておいたのをようやく読みました。
お金は何? という話から始まる経済のお話なんですが、基本的に著者が投資をするときに考えていることという非常に一人称的な視点を中心に書かれている入門書であるのが変わったツクリだなあと思った。とにかくこれからはインフレになるぜ、という話。
殆ど知らないことばかりなので、面白かったのですが、また違った立場の人が書いたものを読んだら違うんではなかろうか。
あと、信用創造とか今一腑に落ちません。信用って何だ。

あと直近の未来の予想が結構多いのですが、発行された夏頃から今までで状況が変わっているために外れているところも在るようです。サブプライムローンの問題はたいしたことがないだろうとか。いや、実際の所どの程度問題なのか知りませんが。
投資家として立場を築いた人でも、間違えるところは間違えるんだなあというは当たり前なのですが、結局誰でも未来を確実に予想することは出来ない。あるいは予想できる人が誰だか知ることは出来ない、とかそういうことを思った。

楽天的な予想は外れるとぼろくそに言われるけど、悲観的な予想は外れてもより悪かったという結果にならなければ結果としては良い状態なのであまり非難されずらい、そして当たれば鬼の首を取ったように言える、というのはあるだろうに楽天的な予想をハッキリ言えるのは凄いんだろうなあと、思った。

××年の○○月に世界は悪い宇宙人によって滅ぼされます。
滅びなければ、私たちのテレパシーが友好的な宇宙人に届いたからなのです。

みたいな。
「影響力の武器」でも読み返すか。

■ダニエル・ヒリス「思考する機械 コンピュータ」
計算機科学のイントロダクションみたいな本。
学科で学んだ情報関係の内容にはだいたい一通り触れてあるといるので網羅性は高いです。そんな分厚い本でもないし、つっこんで書いてあるわけでもないので、これだけでわかるわけでもないのですが、よくあるコンピュータやらプログラミングやらの入門書とは違ったものになっています。
コンピュータがどういう考え方を元につくられているかというところに着眼点があるので、「あなたはコンピュータを理解していますか?」に近いつくりではあるけど、作者の視点というのが強く出ているので、親しみやすいというか、なんというか、なんか面白かった。この辺りは翻訳物のポピュラーサイエンスでは割と感じるけど、個人的な体験というのをフックに話を展開しているのが入りやすい。この本だと、作者が子供の頃電気回路でつくった三目並べの機械の話とか、集積回路を設計するときにどう考えているかとか。コンピュータを下の階層から上まで眺めることが出来ます。
草思社が潰れてしまったようなので、手に入りにくくなるのが勿体ない。
二年辺りで読んでいると専門教育が多少は見通しが良くなったかも知れないなあと思ったりします。

面白かった話としては、デジタルはアナログ以上の精度で情報を表現できるという話。
アナログは無限の細かさを表現できる信号と考えることが出来るが、実際はどうやってもある程度ノイズはのってしまう。例えば、高性能なアナログ回路で信号に百万分の一の割合でノイズがのっている場合、情報処理は百万分の一の精度でしか行うことが出来ない。しかし一方デジタルならこの精度は20ビットで表現できてしまう。
という具体的数値込みの話を、まあ、あれです、デジタルはアナログと違って1と0だからなんだかとか言っている人に聞かせてみたい! とか思った。まあ、正気で言っている人はあんまりいないだろうけどさ。

あと、遺伝的プログラミングでソートを実装した話。実際に正しく動き、通常のアルゴリズムより高速なものができたらしいが、その中身は著者でも理解できないものだったらしい。正しく動くプログラムを作るのに、工学的な手法は、必ずしも必要なわけではない。むしろ計算機やプログラムという、人工物の中で飛び抜けて構成要素が多く、複雑な物をつくるに当たっては工学的手法は破滅的な結果を及ぼす可能性がある。という。

人間の脳と同様の機能、あるいは等価なものを計算機上で実現できるだろうが、それは人間に理解できるものではないだろう、というこのようです。傑出した専門家ですら進化的につくられたソートプログラムですら理解できないのだから。


関係ないけど、丁度自費出版で悪名高い新風者も潰れていたので、草思社とごっちゃになってた。Web 草思も更新を終了していてガッカリする。出版社も色々潰れていく
のは残念、しょうがないんだろうけど。とりあえず僕が良く買うところは潰れないで欲しいなあ。

■ジャック・ケッチャム「隣の家の少女」
トラウマ小説の書き手として名高いジャック・ケッチャムの傑作、と呼ばれる作品。この作家は好きな人は頭がおかしいとまで言われることもあるようです。
主人公の隣の家に、両親が事故死したために預けられた姉妹がだんだんと養母に虐待を受けるようになるお話。それだけきくとありがちとも思える話だが、書籍ブログで劇薬小説ランキングの一位になっていたときもある、なかなか強度のある虐待小説。
カニバリズムがあるわけでもなくスプラッターがあるわけでもなく、映像的に派手な事が起こるわけではない。それでも肺腑を抉られるような気分にさせられる。

例えばサドの小説のようにただただ残虐な描写を淡々と続けるような話は、さほど嫌な気分にはならない。どちらかというとむしろ良くできた冗談のように感じる。映像的にグロテスクでもゾンビ映画はは「面白い」(僕はあまり得意ではないが)。ファンタジーやSFで人が死ぬのは、単にそれだけだ。
戦争や収容所での悲惨な事象は、心に苦しいが、少なくとも今の僕らはそれを日常の中の何かと感じはしない。

この小説が読む人間に苦痛を感じるのは、そこに描かれる日常のあまりの平凡さだ。アメリカの郊外。何処にでもあるような家族。何処にでもいるような子供。それぞれに性格の違いはあれど、異様さを感じさせるようなものではない。本当に近所に、「隣の家」にいてもおかしくないような。
そして事件はその中で起きる。
宇宙から火星人がやってくるわけでも地獄から鬼がわき出てくるわけでもなく、それらの日常に存在する人が、日常の中で少しずつ、ゆっくりと逸脱していき、一線を越える。

主人公はその中でどうすることも出来ない。あるいは加害者側に荷担してしまう。それは子供だからでもあり、少年だからであり、あるいはしがらみがあるからでもあり、要はただ無力である。そんな無力な主人公の決死の行動はむしろただ自体を悪化させる。無力以下だ。

それらを作者は徹底的に主人公の視点から描く。何処にでもありそうな街の、何処にでもいそうな人たちの、何処にでもあっては欲しくない惨事を、無力以下の主人公の目を通して見させられる。全てが牧歌的でしあわせに見えた時期から、少しずつ少しずつ事態が変化し悪化し、エスカレートしていく様を見ることになる。読みながら、ただなすすべのない事態を見るだけである。

小説は主人公の回想で始まる。その書き出しはこうだ。
「苦痛とは何か、知ってるつもりになっていないだろうか?」
何十年も経った後の主人公の記憶であるため、小説の全てはあらかじめ定められた惨事のために存在する。読むのは確かに苦痛だった。読み終わった後には、腹にグズグズといろんな想念が残る。
劇薬小説の名にふさわしい。

ついでにいうと、この小説は事実を元にしている。
事実は小説よりも奇なり。

■ジャック・ケッチャム「老人と犬」
「隣の家の少女」を読んだので勢いで「オフシーズン」を読もうかと思ったが、ちょっと元気が出来なかったのでもうちょっと読みやすそうなものを読んでみた。

愛犬を馬鹿なガキどもに殺された老人が、適切な罰を受けさせようとするが、ガキが資産家の息子であるために、老人の訴えはことごとくつぶされていく。

クソガキを罰する痛快な復讐ものかなあと思っていたし、まあ、割とそんなかんじだったんですが、なんとも収まりの悪い終わり方だった。座り心地が悪いような感じ。
とはいえ途中辛くて間を開けてしまった「隣の家の少女に」比べれば、とても軽く読めた。

■桜庭一樹「砂糖菓子の弾丸は撃ち抜けない」
直木賞をとった桜庭一樹の出世作、らしい。
物語の結末は最初のページに載っている。
バラバラ死体になってしまった友人を、中学生の女の子が見つけるまでの物語だ。面白かったというのも、こういう話が好き、と言うのも少しためらってしまうが、それでもやはり面白かった、と言いたい。
「隣の家の少女」と違い、主人公はそれを見せつけられるわけではない。海野の言動、奇行は、ただおかしいだけのように見える。その奥にある物、子供が現実に立ち向かうための戦いは、見えてこない。
そして見えたときには全て終わっている。

砂糖菓子の弾丸は撃ち抜けない、というお話。