どくしょかんそうぶん
■安田 理央、雨宮 まみ「エロの敵」
昨今、エロ本、エロ小説、AVなど不況に強かったはずの下半身メディアがかなり厳しい状況になってきている。それは何故なのか、いったいなにが敵であるのか、ということを歴史を踏まえながら考察している本。
ヘアヌードブームやら、インターネットによって、裸の画像、動画が無料で手に入り希少価値が無くなってしまったというのが、結局原因のよう。しかも正規のルートで流通しているAV等が、規制によってモザイクがかけられているのに対し、無料で手に入る動画などは無修正であったりする。タダなものの方が過激というねじれ現象がおきている。
いまや回線費だけで、欲しいだけエロ動画が手に入る。お金を払うだけアホらしい、という風になれば当然エロメディアは窮してしまう。
ということでした。敵は、裸の価値の暴落。
まあ、まさしくその世代の人間としてはそうだよなあ、としか言いようがない。PCあるいは携帯で十分事が足りるならお金を払う人は少なくなるのは当然で。結局大体は出すまでの問題ですしね。既存のメディアに残るのは、もともと読者だった人で、平均寿命が毎年一つずつ上がっていく。エロ小説雑誌は年々読者が減っているらしい。寿命で。
そういえば、エロサイトもWEB2.0の流れが来ているようで、とくに海外ではPornhubやらXTubeやらまあ、動画共有型のサイトが色々あるようです。YourFileHost.comもアレですね。YourAVHostとかいうマッシュアップサイトが出たりしてます。みんなエロが大好きです。
しまった、これじゃまるでエロい人みたいだ。
まあ、なんというか、お金をみんなが落とさなくなったら、誰が供給するの? みたいな話になって、いろいろ構造は変わっていっているんでしょうけど、どうなるんでしょうね。
世に猥褻の種は尽きまじ、とはいいますが。
しかし、河原におちている水を吸ったエロ本という原風景が、通じない世代はもうそこまで来ているのかも知れません。寂しいことです。
それはともかく本書内のAVの項目を描いている人が、本のテーマをさておいて熱く熱く熱くAVについて語りまくっているのが結構面白かった。脚注の充実っぷりが尋常じゃない。
■アゴタ・クリストフ「悪童日記」「二人の秘密」「第三の嘘」
これは素敵。
戦争中に、育てられなくなった母親は双子の息子を祖母の家へ預けるが、祖母は街で魔女と言われていて、双子は皆から迫害を受けてしまう。戦争と迫害の中を双子が生きのび、成長していく話。
日記という一人称視点の語り口でありながら、思考や感情を廃し、ただ事実だけを書いていくという形式が面白い。淡々と書かれた日々の記述をよみながら、何が起こったのかを、二人が何を感じたのかを読み取ってい無ければならない。双子はどれほど怒りを覚えても、悲しみを覚えても、あるいは楽しくても全て客観的な記述の中にすべてを隠してしまう。しかし、それでも、隠せない感情がその中から見えてくる。
そして何より主人公の双子の恐るべき強さ。僕らのうちの一人ともう一人の極限的な状況の中で発芽する冷徹で揺るぎない価値観とそれを支える天才性が非常に心に残る。
というのが「悪童日記」。
「二人の秘密」「第三の嘘」はその後の二人の物語。しかし読んでいるとなんとなく違和感を覚える。そしてさらに読み進めるとぶん殴られるような衝撃を受ける。この作者、長々と書いて積み上げていったものを一ページ、一行でひっくり返してしまう。読者が読むために築いた立ち位置をアッサリと突き崩してしまう。
それがとても気持ちが良い。
気持ちよく壊してくれる。
僕は「第三の嘘」を読み終わったあと、しばし呆然としてしまった。
著者の亡命体験が元になっているという事もあり、簡潔に書かれていながら、とても真に迫っている。淡々とでなければかけないような体験だったのかな、と思ったりする。
■アゴタ・クリストフ「昨日」
「悪童日記」三部作と同様に著者の亡命体験が下敷きになっている物語。隣国へと亡命し、時計工場で働く主人公は運命の女性リーヌを待ち続ける。というお話。「悪童日記」ほど衝撃的ではなかったが、これもなかなか凄かった。
どうでも良いんですが、小説中に時計工場でひたすら同じ部品の同じ場所に穴を開け続ける主人公や、神経をやられてしまう女性のことが書かれてました。
で、前からずっと思っていた、「エロフィギュアの彩色って、誰かが人手でやっているんだよなあ」というのが合わさって、きっと中国の貧困層のいたいけな少女がエロフィギュアの乳首に綺麗なピンクのグラデーションを一日中いれてるうちに頭がおかしくなりそうになったりしているのかなあとか考えたりしていた。
僕もどうかしてるわ。
■岩波明「うつ病――まだ語られていない真実」
うつ病は「こころのかぜ」というような生やさしい者ではなく、容易にしに至りうる恐ろしい病である、ということを様々なケーススタディをもとに語り、薬物療法にもちいられる薬、そしてその意義などについて語っている本。
また、増えている自殺の原因として、日本特有の問題も語っている。
というわけでヘミングウェイをはじめとして、でてくるでてくる恐ろしい症例。自殺、無理心中、放火と命に関わるようなもののオンパレード。そしてまた、妙に語り口が生々しい。あるいは、面白いとも言う。実際に事件にまでなったものが多いので、生い立ちから書かれているが、やはり必ずしもらしい人がなるわけではない、というのを見ると、自分も気をつけないと、と思わされる。
器質的なものはしょうがないとは思うが、経済面、生活面から追い込まれないようにはしないと行けないなあと。「隣の家の少女」とかでも思ったけど、お金は大事だよなあ。ありがたいことにこれまであまりせっぱ詰まったことはないけど、これからは自分でどうにかしないけないしな。金銭的な余裕はなるべく持ちたいよなあ。
そうでなくとも、すくなくともなにか逃げ道は常に用意しておくべきだな。出来れば物質的、すくなくとも精神的というか考え方というか。紙はいつも僕らを見ているのですよ!!
紙は我らの天にあり、なべてこの世は事もなし。
■勝間和代「お金は銀行に預けるな」
というわけで、最近売れているらしい金融リテラシー本を読んでみた。基本的にこの手の本は書いてあることは一緒だなあ、って、本によって書いてあることが全然違っても悩みますが。あ、「マネーはこう動く」はわりとそうか。でも「今」やるべき事を書いてているのと、わりと普遍と考えられていることを書いている、ということだろうか。どの程度リスクを取るかという話かな。
というわけで、金融リテラシーの大事を語り、金融商品別に説明をして、どう実践するかまで書いている。とにかく何はなくとも先ずは、分散投資。あとはリスクを管理しろ、とかまあ、そんな感じ。
わりと具体的な情報源の在処や行動までかみ砕いて説明しているのは、ありがたいです。
こういうのは手を動かして実際にやってみないとわからないとは思うんですが、まあ、お金もないしなあ。講座ひらいてもすぐ住所変わるから面倒くさいし。
とりあえずはまあ、楽しめる範囲で類書を読んでみよう。
■ 藤巻 健史「マネーはこう動く」
タイトルが格好いいですよね。マネーですよ。マネー。お金とかそんな日本語な言い方ではなく、マネーです。「お金はこう動く」じゃあ、なんだか諭吉さんが右から左へ動いているという印象ですものね。やっぱりもっとスケールの大きなお金を表すときには、それ相応の言い方がなければならないですよね。
タイトルが格好いいので買ったんですが、読まないで放っておいたのをようやく読みました。
お金は何? という話から始まる経済のお話なんですが、基本的に著者が投資をするときに考えていることという非常に一人称的な視点を中心に書かれている入門書であるのが変わったツクリだなあと思った。とにかくこれからはインフレになるぜ、という話。
殆ど知らないことばかりなので、面白かったのですが、また違った立場の人が書いたものを読んだら違うんではなかろうか。
あと、信用創造とか今一腑に落ちません。信用って何だ。
あと直近の未来の予想が結構多いのですが、発行された夏頃から今までで状況が変わっているために外れているところも在るようです。サブプライムローンの問題はたいしたことがないだろうとか。いや、実際の所どの程度問題なのか知りませんが。
投資家として立場を築いた人でも、間違えるところは間違えるんだなあというは当たり前なのですが、結局誰でも未来を確実に予想することは出来ない。あるいは予想できる人が誰だか知ることは出来ない、とかそういうことを思った。
楽天的な予想は外れるとぼろくそに言われるけど、悲観的な予想は外れてもより悪かったという結果にならなければ結果としては良い状態なのであまり非難されずらい、そして当たれば鬼の首を取ったように言える、というのはあるだろうに楽天的な予想をハッキリ言えるのは凄いんだろうなあと、思った。
××年の○○月に世界は悪い宇宙人によって滅ぼされます。
滅びなければ、私たちのテレパシーが友好的な宇宙人に届いたからなのです。
みたいな。
「影響力の武器」でも読み返すか。
■ダニエル・ヒリス「思考する機械 コンピュータ」
計算機科学のイントロダクションみたいな本。
学科で学んだ情報関係の内容にはだいたい一通り触れてあるといるので網羅性は高いです。そんな分厚い本でもないし、つっこんで書いてあるわけでもないので、これだけでわかるわけでもないのですが、よくあるコンピュータやらプログラミングやらの入門書とは違ったものになっています。
コンピュータがどういう考え方を元につくられているかというところに着眼点があるので、「あなたはコンピュータを理解していますか?」に近いつくりではあるけど、作者の視点というのが強く出ているので、親しみやすいというか、なんというか、なんか面白かった。この辺りは翻訳物のポピュラーサイエンスでは割と感じるけど、個人的な体験というのをフックに話を展開しているのが入りやすい。この本だと、作者が子供の頃電気回路でつくった三目並べの機械の話とか、集積回路を設計するときにどう考えているかとか。コンピュータを下の階層から上まで眺めることが出来ます。
草思社が潰れてしまったようなので、手に入りにくくなるのが勿体ない。
二年辺りで読んでいると専門教育が多少は見通しが良くなったかも知れないなあと思ったりします。
面白かった話としては、デジタルはアナログ以上の精度で情報を表現できるという話。
アナログは無限の細かさを表現できる信号と考えることが出来るが、実際はどうやってもある程度ノイズはのってしまう。例えば、高性能なアナログ回路で信号に百万分の一の割合でノイズがのっている場合、情報処理は百万分の一の精度でしか行うことが出来ない。しかし一方デジタルならこの精度は20ビットで表現できてしまう。
という具体的数値込みの話を、まあ、あれです、デジタルはアナログと違って1と0だからなんだかとか言っている人に聞かせてみたい! とか思った。まあ、正気で言っている人はあんまりいないだろうけどさ。
あと、遺伝的プログラミングでソートを実装した話。実際に正しく動き、通常のアルゴリズムより高速なものができたらしいが、その中身は著者でも理解できないものだったらしい。正しく動くプログラムを作るのに、工学的な手法は、必ずしも必要なわけではない。むしろ計算機やプログラムという、人工物の中で飛び抜けて構成要素が多く、複雑な物をつくるに当たっては工学的手法は破滅的な結果を及ぼす可能性がある。という。
人間の脳と同様の機能、あるいは等価なものを計算機上で実現できるだろうが、それは人間に理解できるものではないだろう、というこのようです。傑出した専門家ですら進化的につくられたソートプログラムですら理解できないのだから。
関係ないけど、丁度自費出版で悪名高い新風者も潰れていたので、草思社とごっちゃになってた。Web 草思も更新を終了していてガッカリする。出版社も色々潰れていく
のは残念、しょうがないんだろうけど。とりあえず僕が良く買うところは潰れないで欲しいなあ。
■ジャック・ケッチャム「隣の家の少女」
トラウマ小説の書き手として名高いジャック・ケッチャムの傑作、と呼ばれる作品。この作家は好きな人は頭がおかしいとまで言われることもあるようです。
主人公の隣の家に、両親が事故死したために預けられた姉妹がだんだんと養母に虐待を受けるようになるお話。それだけきくとありがちとも思える話だが、書籍ブログで劇薬小説ランキングの一位になっていたときもある、なかなか強度のある虐待小説。
カニバリズムがあるわけでもなくスプラッターがあるわけでもなく、映像的に派手な事が起こるわけではない。それでも肺腑を抉られるような気分にさせられる。
例えばサドの小説のようにただただ残虐な描写を淡々と続けるような話は、さほど嫌な気分にはならない。どちらかというとむしろ良くできた冗談のように感じる。映像的にグロテスクでもゾンビ映画はは「面白い」(僕はあまり得意ではないが)。ファンタジーやSFで人が死ぬのは、単にそれだけだ。
戦争や収容所での悲惨な事象は、心に苦しいが、少なくとも今の僕らはそれを日常の中の何かと感じはしない。
この小説が読む人間に苦痛を感じるのは、そこに描かれる日常のあまりの平凡さだ。アメリカの郊外。何処にでもあるような家族。何処にでもいるような子供。それぞれに性格の違いはあれど、異様さを感じさせるようなものではない。本当に近所に、「隣の家」にいてもおかしくないような。
そして事件はその中で起きる。
宇宙から火星人がやってくるわけでも地獄から鬼がわき出てくるわけでもなく、それらの日常に存在する人が、日常の中で少しずつ、ゆっくりと逸脱していき、一線を越える。
主人公はその中でどうすることも出来ない。あるいは加害者側に荷担してしまう。それは子供だからでもあり、少年だからであり、あるいはしがらみがあるからでもあり、要はただ無力である。そんな無力な主人公の決死の行動はむしろただ自体を悪化させる。無力以下だ。
それらを作者は徹底的に主人公の視点から描く。何処にでもありそうな街の、何処にでもいそうな人たちの、何処にでもあっては欲しくない惨事を、無力以下の主人公の目を通して見させられる。全てが牧歌的でしあわせに見えた時期から、少しずつ少しずつ事態が変化し悪化し、エスカレートしていく様を見ることになる。読みながら、ただなすすべのない事態を見るだけである。
小説は主人公の回想で始まる。その書き出しはこうだ。
「苦痛とは何か、知ってるつもりになっていないだろうか?」
何十年も経った後の主人公の記憶であるため、小説の全てはあらかじめ定められた惨事のために存在する。読むのは確かに苦痛だった。読み終わった後には、腹にグズグズといろんな想念が残る。
劇薬小説の名にふさわしい。
ついでにいうと、この小説は事実を元にしている。
事実は小説よりも奇なり。
■ジャック・ケッチャム「老人と犬」
「隣の家の少女」を読んだので勢いで「オフシーズン」を読もうかと思ったが、ちょっと元気が出来なかったのでもうちょっと読みやすそうなものを読んでみた。
愛犬を馬鹿なガキどもに殺された老人が、適切な罰を受けさせようとするが、ガキが資産家の息子であるために、老人の訴えはことごとくつぶされていく。
クソガキを罰する痛快な復讐ものかなあと思っていたし、まあ、割とそんなかんじだったんですが、なんとも収まりの悪い終わり方だった。座り心地が悪いような感じ。
とはいえ途中辛くて間を開けてしまった「隣の家の少女に」比べれば、とても軽く読めた。
■桜庭一樹「砂糖菓子の弾丸は撃ち抜けない」
直木賞をとった桜庭一樹の出世作、らしい。
物語の結末は最初のページに載っている。
バラバラ死体になってしまった友人を、中学生の女の子が見つけるまでの物語だ。面白かったというのも、こういう話が好き、と言うのも少しためらってしまうが、それでもやはり面白かった、と言いたい。
「隣の家の少女」と違い、主人公はそれを見せつけられるわけではない。海野の言動、奇行は、ただおかしいだけのように見える。その奥にある物、子供が現実に立ち向かうための戦いは、見えてこない。
そして見えたときには全て終わっている。
砂糖菓子の弾丸は撃ち抜けない、というお話。