2006年09月30日

正午

ですね。


「火星人の方法」アイザック・アシモフ
言わずと知れたアシモフの初期の充実した時期に書かれた短編集です。同時期に書かれたものとしては、「鋼鉄都市」「はだかの太陽」「永遠の終わり」と誰でも知っているような作品が並んでいる、そういった時期です。アシモフは多分一番冊数を読んでいるSF作家で、突き抜けたような所はないけれど、堅実でかつビジョンのあるSFの代名詞のような作品を書き、どれも安定して面白いので大体安心して読むことが出来ます。
因みに個人的な位置づけで対極にあるのがディック。両者多作だけど、ディックは突き抜けてるわ、凄い作品の直後に意味不明な作品があったり、全く安心して読めない。それはそれでまたいいんですが。
そんなわけでアシモフの短篇集なんですが、どれも水準は高く面白いのですが、いかんせん古さがネックになってしまっている部分もある。古さが逆転して面白さになるところまではいっていない感じはします。


「火星人の方法」
開拓途上にある火星は地球の資源に多くを頼っていた。しかし地球で台頭しつつある<反浪費者>たちの政治活動のために、火星は地球からの水資源の供給を絶たれてしまう。火星を捨て、地球に戻るしか道はないように思われたが、火星の人たちは「火星人の方法」で問題の解決に当たることになる。

表題作。火星と地球の確執、資源問題など、比較的最近の火星を扱ったSFでは典型的なテーマの短篇です。ただ書かれたのが50年代と言うことを考えると、むしろ走りと言った方がいいのかも知れません。多段ロケットの切り離したものをどうするかとか、作中では資源問題として扱われているけど、今ならデブリ関連の扱いになるんでしょうね。
宇宙開発に伴う地球からの資源の流出という視点は見たことがなかったので面白いなあと思いました。だいたい逆の扱いの方が多いですし。


「若い種族」
二人の少年が田舎で見つけた奇妙な小動物は、実は宇宙人だった。

これもまあ(今となっては)割とありがちな雰囲気の作品。話も特に面白いこともなく終わるなあと思ったら、最後にちょっとどんでん返しがありました。


「精神接触」
恒星が死んだ星系に、熱エネルギーを求めて惑星の地下に居住区を移した種族がいる。しかし時間が経ち惑星の核すらも徐々に熱を失いつつあり、種族は緩慢な絶滅の危機にあった。そこで彼らは生き残りをかけて、他の惑星への移住を試みる。

恒星とか熱エネルギーとかは割とどうでも良く、異種族の文化ギャップの話です。テレパシーを当たり前のように持つ種族にとって、地球人はいったいどういう風に見えるか、ということがテーマだと思いました。ちょっと「神々自身」に近い雰囲気を感じます。

話はずれますが、ある程度昔のSFだと精神接触とか念力と言ったものがハードSFでも普通に出てきます。一方で今のものを見てみると、ある程度かっちりしたSFでそういったものがまじめに取り上げられることはないように見受けられます。
元々はSFの範疇だった精神の力、といった類のものはいつしか真面目に扱うにはうさんくさいものである「超能力」として切り離されてオカルトに吸収されていったのでしょう。脳神経科学の発達とか、あるいはもっと社会的な問題かも知れませんが、人間の精神が特異なものではない、(ある程度既知の)物理法則の範疇内で語りうるはずだという事になり、進化した人間は今はまだ未知の精神の力を持ちうるのではないかという考え方が廃れてしまったのではないでしょうか。
検証していないのでわかりませんが、その辺はサイバーパンクとかが一つの転換点なのかなあと思うんですがどうでしょう。人間と機械を等価に扱う、その境界を限りなく曖昧にする。あるいは人間の精神を”スキャン”して計算機上でシミュレートする。そういった考え方、アイデアは、精神を優位とする中では生まれないアイデアではないでしょうか。
そういえばクラークの宇宙の旅シリーズですが、「2001年宇宙の旅」でスターチャイルドになったボーマンですが、シリーズが進むにつれいつの間にかモノリス上で実行されているシミュレーションになってましたね。個人的にはそれがシリーズのスケールの矮小化の一つの表れのようで嫌だったのですが、SFというジャンルの流れの中ではある程度必然的だったのかもしれません。


「まぬけの餌」
人口爆発により既知の惑星が手狭になってしまった頃、地球にそっくりな居住可能と思われる惑星ジュニアが発見された。しかしそこは以前既に植民されたことがある星であり、しかもその人たちは星に住み始めて一年ほどで、謎の理由で全滅してしまっていることがわかった。新たな植民の前に、科学者たちが理由を探るために派遣された。その中には特別な理由のために完璧な記憶を持っている少年も同行していた。

アシモフ一流のSFミステリです。一見地球にそっくりに見える、理想的な惑星。大気は呼吸可能だし、植物動物は食べることが出来る。人間に致命的な病原菌がいるわけでもない。植民惑星として完全に見える星は、しかし昔移住してきた人間を絶滅させている、何故? とくる訳です。様々な分野の科学者が集まり、それぞれの専門に応じてその原因を探るがわからない。しかし、無数の分野の知識を持つ少年は……とくるわけですよ。
謎があり、探偵役がいる。読者の目をそらすものもあり、煙に巻かれてるが、最後まで読めばなるほど! となる。いやまあ、読んでいる最中にわかる人はまずいないだろうという点でミステリ好きには好ましくない作品かも知れませんが、ちゃんと解く鍵は途中に出ているし、”フェア”なミステリだと思います。

もう一点いかにもアシモフだと思わされたことがあります。アシモフは数多くの科学解説本を書いているポピュラーサイエンス作家としても有名であり、自身医学者でありながら科学の様々な分野に造詣の深いジェネラリストでした。作中では専門家がたくさん出てきます。天体物理学者、医学者、地質学者、生物学者、等々。それぞれその分野では最高の人材ではあるものの、他の分野についての専門知識は全くないスペシャリストたちです。彼らは科学が深化するに従って、専門が細かく分化していく現代の科学の状況の象徴的な存在になっています。人間の知能も寿命も有限である以上それはある程度仕方がないのですが、それだけではうまくくはない。作中でも専門家がいくら集まっても惑星が人間を殺す原因を知ることは絶対に出来ません。
それはジェネラリストとしての性質を持つ少年が存在することで初めて解くことが可能でした。この少年は特殊な才能を持ち、特殊な教育を施されることで、一度見たものをその意味を理解することなく完璧に覚え、その能力を使ってありとあらゆる事に関する知識をため込む。そして人間に固有の連想能力を使うことで、隔たった分野の知識をつなげ、新たな知識を生み出すために育てられた、現実に考えてみればあり得ないのですが、ある種抽象的なジェネラリストです。そのジェネラリストの少年がスペシャリストたちと協力することで、初めて困難な謎が解かれることになります。
こういった構図はおそらくアシモフの問題意識のものだったのではないでしょうか。一つの専門を突き詰める人間、そして一歩身を引いて科学全体を概観する人間、その両者がいてはじめて科学は発展することが出来るという信念なのだと思います。アシモフはジェネラリストである自分に満足していたようですが、一方で専門家が不可欠であることも勿論強く認識していたはずです。しかし現状の専門家はたっぷりいるが、ジェネラリストは不足しているという認識と、自身の誇りがこの作品をこういった主張にしているのだと思います。
最近では学際というものが良く取り上げられています。取り上げられるということは今も変わらずジェネラリストは足りないのでしょう。うちの大学でもつくられている学際組織は、学生の受けはあまりよろしくないようですが、上手く設立目的を達成して欲しいと思います。


異能力というと「ジョジョ」の真似、といった主張をネットにしろ実際にしろ聞いたり見たりすると、個人的にはどうかと思ったりする。まあ、今の世代に広げたのはジョジョかも知れないので、「ジョジョ」で初めて異能力を見た人にとってはそう思うのは仕方がないのかも知れない。
それにしたってウン十年も前に一世を風靡した忍法帳シリーズで山田風太郎が人口に膾炙してしまっているわけだし、菊池秀行といったフォロワーもそれなりにいる。僕の知らない作品だってたくさんあるだろう。漫画で言ったってX-メンなんか七十年代には少なくともあるわけだし、読んだことはないけど忍法ものも結構あると聞く。異能力=ジョジョというのでは余りにも視野が狭すぎる。
ジョジョに特異なのはあの幽霊みたいなスタンドを出すことで異能力が発揮されることであり、異能力そのものではない。そう考えると、実際ジョジョ後の異能力バトルものにしたって、ジョジョのフォロワーと言うよりは、連綿と続く異能力というジャンルの一つとして考えるが自然ではないか。勿論必ずしも影響がないとは言わないけど。
ジョジョは個性的すぎる絵や台詞や演出により、オリジナリティが過度に印象づけられてしまっていると思う。そのために、必ずしもジョジョオリジナルでないものも、オリジナルと認識されてしまっているのかなあ、とふと考えた。
凄い作品だけど、持ち上げすぎるのもね。みんながみんな好きな訳じゃあない。


ネットをぼーっと見ていて、嫌煙家に対する不快感、みたいのが結構語られていた。というか論争になっていた。中身はどうでもいい感じですが。
僕はまあ、自他共に認める嫌煙家なわけですが、確かに、キライキライ言い続けているのを端から見るのは気分悪いものなので、その気持ちもわかるっちゃわかります。
それは嫌煙に限らないことですが。

僕も嫌煙日記に関して割と近しい人に散々嫌みを言われてガックリきたので、とりあえずネットにしろ面と向かってにしろ表に出すのは、基本的には止めようと思い何も言わないことにしています。まあ、僕の書き方もたいがいだったし、一方で大分慣れたというのもありますが。

なんというか、不快であることを相手に言う、といううことが褒められる行為ではない事につけ込んで、「拒否されなかった」からタバコを吸う類の人が、あまり好きにはなれない(控えめな表現)。ようは吸っていいかきくぐらいならそもそも吸おうとするなよ、と言う話です。
そういった話はタバコに限らないことですが、端的なのがタバコ、というのと僕がタバコの煙が苦手というのと。

そんなことを言えばお前はどうなの? という話になり、うーんと唸ってしまうんですが、たまにはいいかなと。

もちろん吸っていいか聞かないで吸う奴は(以下自粛)

2006年09月28日

今日の私

雨読


「脳波」ポール・アンダーソン
SFでは「タウ・ゼロ」、ファンタジーでは「折れた魔剣」と広いジャンルで傑作のあるポール・アンダーソンの処女長編、らしいです。ポール・アンダーソンは読んだ限りでは(といっても上記の二作と「地球帝国秘密諜報員」とこれだけだけど)、面白いんですが残念なことに殆ど絶版してしまっているようで、割と手を出しづらいですね。なのでまあ、だいたい古本で探すことになります。最近は結構見つけるんですが、値がわりと張るのが……
まあ、Amazonで買えって話ですが。

ある晩、世界中で不可解なことが起きる。ウサギは罠を自分で外して逃げ出し、十歳の子供が微積分を発見しかけ、白痴は自我に目覚めて行動を始める。全世界の脳を持った生物の知能が飛躍的に増大したのだ。しかし全ての人間が天才的な知能を持つことで、逆に社会秩序は崩壊を始める。かつて単純労働をしていた人間は皆仕事を拒否し、悩みもなかったような人間が狂気に陥るようになる。自分の知能の使い方にとまどう人間たちは、あるものは命を絶ち、あるものは新興宗教に走っていく。
しかし、時間が経つにつれ、少しずつ新たな秩序が見え始めてくる。

要は人類総アルジャーノンに花束を、状態になったというわけです。知能が増大しても、それをどう使えばわからない。チャーリーの用に誰かが導いてくれるわけでもない、誰もが混乱している、そんな事になったら世界はどうなるのかというある意味ではシミュレーションのような側面もある小説です。
科学者は、おそらく適応するだろう。子供は? 問題ない。しかし、頭を使うような事をしないまま大きくなった人間は? 適応する人間はする、が自分の知能に適応できない人間もいるだろう。出来る人間も、新しい状態になれるまで多くの時間を費やすだろう。それまでに人間社会は維持できうるのか。出来ないのか。そして適応できなかった人間はどこへ行くのか。
この小説はこういった「全ての人間の知能が増大する」場合どうなるのか、という疑問への回答になっています。が、ポール・アンダーソンだけに無論それだけではないわけで。
SF的な面白さで言えば、何故知能が増大したのかということに対する解が与えられ、宇宙を見渡したとき、人間が宇宙でいかなる存在であり、何をすべきかといった(僕好みの)スケールの大きな話もある。あるいは、知能とはいったい何なのか。それは人間にとってどういうものなのか、と言うことについての一つの答えもある。
知能が増大しても変え得ない性向といってものを、人類種としてみたとき乗り越えうる、といった全般的に理想的すぎる、あるいは人間中心的なきらいはあり、それは確かに何かと言われそうな気もします。しかし、破滅的な状況を設定しても、不必要に悲劇的な物語になることなく、希望をもてる終わり方にしているのは、SFとしての一つの正しい形だと思います。
話の面白さとSF的な面白さと思弁的な面白さをぶちこんで、一つの小説に作り上げているコレは確かに、ポール・アンダーソンの処女作に違いないと思わせる良作でした。


あー。コミティアの直前に割と大変な。
……。
今僕の冷静な判断力を総動員すると割とアレな予感がひらめいた。

2006年09月27日

もう近況じゃない

いや、近況は近況なんですがね。


「壬生義士伝」浅田次郎

タイトルにもあるように、新撰組の隊員を題材にした時代小説です。
僕自身は新撰組にも、そもそも時代小説にもあまり興味はなく、新撰組関連で読んだことがあるのは司馬遼太郎の「燃えよ剣」と「新撰組血風録」ぐらいのものです。前者は面白かったのですが、だからといって新撰組自体に興味が向くことはなく、これらを読んでいこうは一度も新撰組関連のものを読んでいませんでした。なので名前は聞いたことがあったとはいえ特に興味もなかったのですが、非常に進められて読んだのですが……
これは良かった。とても良かった。
元々涙腺のずいぶんと緩い僕とはいえ、ココまで目にゴミが大量に入ったのは久しぶりというか、初めてかも知れません。あまり”感動もの”に分類されるものは好きではなかった僕が、こうまで胸を打たれたのは歴史小説という実際にあった出来事を元にしたものだからか、あるいは主題によるものなのかはわかりませんが、何にせよあまり読む姿を人に見られたくないですね。

幕末、鳥羽伏見の戦いが幕府軍の敗北に終わった日、大阪の南部藩の屋敷に一人の新撰組の落人がやってくる。元は南部藩の武士であり脱藩して新撰組に入った吉村貫一郎は、故郷に戻り妻子に再び会うことを望むが、しかし幼なじみだった大野次郎衛に切腹を命じらる。
時代は下って大正時代。一人の取材者が、新撰組の生き残りの老人の所にやってくる。老人は彼に請われ、吉村貫一郎の思い出を話し始める。

この小説の形式は多少変わっていて、はじめの部分、主人公が南部藩の屋敷に来る下りをのぞけば、一つは取材者を対象に幕末の生き残りが昔の思い出を語る、と言う形式、もう一つは主人公が切腹をするまでに考えていること、という形式を取っています。さらに言えば取材者の言葉さえ一つもなく、それは語り手の言葉から推測されるのみとなっています。
そのため語られることは全て完全な主観となり、それがこの小説のストーリテリングの肝となっているように思います。一つの出来事が、一人の目からは表層的にしか見えないものが、複数の人間の目から見ることで、全く違った意味があり、意図があったことがわかる。同様に、一人の目からはつまらない人間に見えた人が、全て読みおわったとき、想像もしなかった全く違った人間がそこに見える、そんな小説です。
はじめ吉村貫一郎は風采のあがらない人物に見えます。学も武も並々ならないものを持ちながら、しかし金に意地汚く、身なりも整えず、武士道の一つの極北とも言える新撰組の中で、いわば武士道にもとる、矛盾した人間に見える。
しかし証言を重ね、なぜ藩校で学問も武術も教えていたほどの人間が脱藩したか。なぜ、新撰組にはいったのか。なぜ……と吉村貫一郎にまつわる不思議に答えていく中で、実は彼が一つの大きな考え方、生き方を貫いていたと言うのが見えてきます。

様々な物語の中には、様々な傑物がいます。名誉のために、あるいは家族や他人のために命を落とす人、僕もそういった物語に感動を覚えたことは何度もあります。しかし、多くの場合そういった傑物はそれがために人間を超越しているように思います。彼らの滅私の精神は、実在することを信じるのは難しい場合が多くあります。
「壬生義士伝」はしかし、そうではないと思います。人が人でありながら、どういった存在になりうるのか、あるいはならざるを得なかったのか。家族、友人、名誉、お金、命、国と言った大切にするべきもの、しかし全てを守ることの出来ないものなかから、どういう選択をしたのか。何故、しなければならなかったのか。そういったことを書いているのだと思います。
そして、それを読み知ったとき、武士道と理想化されたものではない、しかし有り得べきだった武士が、あるいは義士がどういうものなのかが、僕たちは見ることが出来ます。

激動の時代と恵まれない環境と恵まれた才能が形作った一つのすさまじい人生を、卓越した語りで読めるのは、本当に嬉しいことだと思います。


「そらとびタマシイ」五十嵐大介
「魔女」の続きが出なさそうなので買ってみました。んー「魔女」に比べると前だからなのかよくわからないけど、話は荒い感じもする。
絵は「魔女」と同様ものすごく上手い。上手い上に、もの凄く生々しい。異様な描写も生々しいもので、見ていて気分が悪くなったりもします。
良かったんですが、それはともかく個人的には魔女の続きはでてほしい。


「よみきりものの…… コオニライフ」竹本泉
竹本泉の感想は楽でいいですね。
いつも通り。

この安定感!!


近況というか。ダラダラと2chの家族にものを捨てられない人がいてこまる、という感じのスレッドを読んでいたら、なんかまたもー激しくモノを減らしたい衝動に駆られた。
とはいえ、断じて僕はものを捨てられない人間ではない。

で、何を処分できるか色々悩んでいたんだけど、とりあえず本は処分しないとすっきりしないと言うことは明々白々なので、そこから始めようと思った。段ボール一箱、特に大判の本とマンガをメインに処分しようと色々選んで、一応は一箱分選んで、さあコレいったい誰が古本屋に持って行くんだよという気分になっているんですが、それは本題ではない。

本題。
かたしている途中で青い鳥文庫版のレンズマンをつらつら読んでいたらなかなか衝撃的な描写が目に飛び込んだので引用。しようかと思ったけど、多少冗長なので創元SF版から対応する部分を引用。
「すでにあらゆる種類の気違いじみた団体が各所で名乗りを上げ、絶対主義から無政府主義にいたるさまざまな主張を喧伝しているし、奇妙な宗教が次々に生まれ、自由恋愛や切迫した世の終わりなど、常識外れの協議が幅をきかせ始めている。」
エ、自由恋愛ってそこに並列に入れられるようなモノなの? というより主人公とヒロインは自由恋愛でくっついていたんじゃないの?
うーむ。1950年代のアメリカでの自由恋愛観ってそんな感じなのかなあ。あとそもそも自由恋愛という言葉じたい、今や結構時代がかっていると思った。当たり前すぎるのか、いま使う人いないように思われる。


落書き。へ〜ほ〜。

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2006年09月23日

近況とは黙して語らない事である

……


タイトルつけるのが上手い人ジェイムス・ティプトリー・ジュニアと、コードウェイナー・スミスを忘れていた。
前者の作品はあんまり好きではないけど、タイトルは上手いと思う。「たったひとつの冴えたやりかた」とか「愛はさだめ、さだめは死」とか。「老いたる霊長類の星への賛歌」。うーん。でも原題知らないから何とも言えないけど。内容も実を言えば二冊ぐらいしか読んでいないので何とも言えないけど。あーでも「星ぼしの荒野から」の前半の方のは良かったなあ。「ラセンウジバエ解決法」とか「天国の門」とか。ディックを思わせるような、皮肉な感じがある。って、前もなんか書いた気がする。
スミスは「人類補完機構」シリーズで有名だけど、作品名の付け方もいい……と思ったけど、見返してみると特筆するほどではないなあ。「シェイヨルという名の星」、「ノーストリリア」等、個人的には好きだけど、それはどうも作品に対する感想というか、作品のあの絶妙な文体によって与えられる固有名詞、上記のだとシェイヨルとかノーストリリアとかから想起されるある種の感情によって、印象づけられるているからのような気がする。
読んだ後だといいタイトルに見えるというのは、どうなんだろう、もちろん作品の良さからくるモノではあるんだけど、それならわざわざタイトルをどう、と言うほどでもないかなあ。
でもそれを言えば、前書いたブラッドベリとかだって、読んだことのない人にどう見えるかわからないなあ。



そうだ、「ビッグバン宇宙論」を読んで気になっていた言葉を引用しようと思って忘れていた。
僕は前から疑問、と言うほどでもないんですが多少不思議だったことがあります。
物理では理論家と実験家がいて、両方をこなせる人は殆どいないと言います。なのですが、実験家というのは実に、泥臭いというと失礼ですが、なんか大変そうだなあ、どうして志望するのだろうという割と失礼な疑問があったのですが(特に天文学なんて今とは比べものにならないほど大変だったと言うし)、本の中にあった言葉で氷解しました。
ハッブルの助手をしていた天文写真家のミルトン・ヒューメイソンの言葉です。

「私はこの仕事の中で自分が果たした役割が、いわば基本的な部分だったことをいつもありがたく思ってきました。それは永遠に変わらない部分です――それが意味するところについて、どんな判断が下されようとも。私が測定してスペクトル線は、永遠に私が測定した位置にあります。速度も、赤方変移と呼ばれようが、最終的にどんな名前で呼ばれることになろうが、変化することはありません」

なるほど。
元々はラバ追いをしていたということで、もしかしたら実験家の中でも変わった考え方の人なのかも知れませんが、それでも実験家の動機についてこれ程納得出来る言葉は始めて読みました。


「暁の女王マイシェラ」マイクル・ムカコック

エルリック・サーガあらため、永遠の戦士エルリックシリーズも早くも第三巻。まあ、とっくに第4巻は出ているし、僕の本棚にも入っているんだけど、割と放置気味。再来月からついに未訳の「夢盗人の娘」とかが発売されるので、その辺は割と期待……していいのかなあ。と、読んでて不安になったけどそれはそれとして。
何にせよ新版は字が大きくて読みやすいですね。
永遠の戦士エルリックシリーズは、まあタイトル見ればわかるとおり、ファンタジー(と言い切っていいのかは知らないけど)。話をざっと説明すると以下の通り。

一万年の長きにわたり、世界を支配していたメルニボネ帝国は、新王国の隆盛とともに少しずつ衰退しつつあった。メルニボネに蔓延する退廃、冷淡さを嫌った最後の王であり、最高の魔術師であるエルリックは、臣民を変え、帝国を救おうと努力するが、いとこの裏切りや策略の結果、自ら帝国を滅ぼし、魔剣ストームブリンガーとともに世界をさまようこととなる。

という感じでしょうか。アリオッホ、キシオムバーグ、マベロードといった<秩序>と<混沌>の神々、それらの均衡をたもつ<天秤>、コルム、エレコーゼ、ホークムーンなどの永遠の戦士の概念や、後期の作品に重要になる多元宇宙など、エルリック(というかムアコックの諸作品)を特徴付ける世界設定は面白いけど説明が面倒くさいのでパス。読もう。読むとストームブリンガーとか例えばロードス島戦記とかに影響を与えているのがよくわかって面白い。

そして新版シリーズ三巻目「暁の女王マイシェラ」は、旧版4巻「暁の女王マイシェラ」と8巻「薔薇の復讐」の二本立てになってます。新シリーズで時系列が正しくなるように入れ替えられたから。話はずれるけど、前者に割と関係のある「オーベック伯 の夢(旧版三巻収録)」が未収録になっているんだけど、いつかされるのかなあ。「暁の女王マイシェラ」で微妙に言及されている以上、出した方がいいと思うんだけど。
とりあえず感想は別々に。
「暁の女王マイシェラ」は面白かった。昔読んだとおりというか、青春時代に一番印象に残っている作品だからというのもあるけど、やはり素晴らしさに偽りはない。エルリックの宿敵セレブ・カーナの笑ってしまうほどのしぶとさとか、エルリックの救われなさとかとても懐かしい。中学高校と熱中した世界が変わらずそこにあり、非常に嬉しい気分になった。
しかし「薔薇の復讐」に関して言えば、思い出分を足してもやはり今一だった。作者自身も言っているようにマイシェラでのエルリックが著者の投影であり、それがために非常にその感情や悩みに生々しさがあったように思われるが、薔薇では作者の興味が多元宇宙、<秩序>と<混沌>の闘争など、世界設定の方に完全に移っているようで、もはやキャラクターが話を展開させるための、まさに<運命>の駒のようになってしまっている。
なーんてことは正直どうでも良くて、読んでて話がさっぱり全然わからないのがすげえストレスだった。あれ、どうなってたっけと何度も前に戻って読む羽目に。話がコロコロ展開する割に、いまひとつ納得できないんだもの。特に多元宇宙関係
そんだけ!!
「真珠の砦」が配置換えされることで、昔読んだときよりずっと面白く楽しめたから、「薔薇の復讐」も同じように楽しめるかと思ったけど……。
というわけで、「夢盗人の娘」以下新三部作についても、多少の不安はあるものの、まあ今更期待するでもなし適当に待とう、と思うことにした。

ついでというか、エルリックが微妙にファンタジーから踏み出しているように思わせる、ちょっと面白い台詞。<混沌>の神、アリオッホの台詞。

「余は<混沌>。余はすべて。余は<非=線形>なるもの。自由運動粒子のあるじにして、エントロピーの最大の司祭。余は無より吹ききたる風。余は無限の可能性の王侯! (中略) 多元宇宙で唯一の正義とは――すべてが――神々すら――偶然発生し、偶然消滅にいたるということだ。(後略)」

2006年09月20日

詳細な近況


建物内地上地下地上建物内地上地下地上建物内。


雨が降ったので、部屋干しにしようと外に干していた洗濯物を取り込んで、とりあえずベッドの上に放置していたのですが、さすがにそろそろ干すかと持ち上げたら、結構大きな虫が二匹どっかりと落ちてきたので、呼吸が止まった。一秒。
最初はGかと思ったけど、よくよく見るとてかてかしていないし、Gではない。なんかよくわからないけど虫。触りたくない。触らないで処分するには何かモノを使って遠隔でピックアップ、処理しなければならない。そうするためには虫が死んでいなければならない。でもつぶすのはバッチイのでいや。ゴキジェットをベッドの上に使うのも嫌。
と、四面楚歌、二律背反、な状況に置かれ、じっと動かない虫を見ながらずーっとどうしようかどうしようか悩んでいたのですが、そこはほら、僕機転が利くので、封筒で取り押さえて口を押さえればいいじゃんと気がついた。網の変わり。
で、封筒の口をそろそろと近づけたら一匹が目を覚まして、飛び回る飛び回るヒィイィィィ。仕方がないので、もう一匹を首尾良く処理したあと、洗濯物の陰に隠れたそいつを封筒に閉じこめたつもりが、封筒の口を押さえるのを生の手でやってしまったせいで、虫が手に、
「ぎゃあ」
とかそういった類の単語を無意識に叫んだのは久しぶりだった。半端ではなく気持ちが悪い。で、逃げた虫が飛び回りあまつさえ僕の頭めがけてつっこんできたのでめまいがした。
そのあとは壁にとまった虫を、首尾良く捕まえて、今彼らはそれぞれ封筒に入ったままビニール袋の中に入れられ、ドアの外に入れられ、明日ゴミ収集車に収集されたあげく焼却炉で燃やされる運命にあります。

正直ダメなのは、Gかと思っていたけど、どうも虫全般はダメらしい。というと虫ごときも耐えられないとは、貧弱Boyめ! とかどこか、ユートピアの方からおしかりがきそうな気もする。が、弁解させてもらうと、外で虫を見てもそこまで動揺はしない。Gは嫌だが、まあそこそこには対処できると思う。というか歩き去ればいいだけだし。
家の中、それも一人でいる状態というのは、限りなく心が無防備になっている状態であり、そういうハートがむき出しの状態で、ああいう地獄からの死者然とした生き物が現れると僕は正直動揺を隠せない。さらに言えば、虫に限らず、蚊以上の大きさで、僕以外の動くモノが部屋の中に存在していると言うことに、どうも僕は耐えられないような気がする。
あ、人間は許容範囲だけど。
だから、部屋にいても他の人がいればそんな無防備ではないので、ある程度冷静に対処できるんだけど。それにしてもそれにしても、ああいった動く物体の存在が許されている宇宙の物理法則に異論を唱えたいと思うのは一般的な感情であるはずである。


「スリランカから世界を眺めて」アーサー・C・クラーク

初めて入手したサンリオ文庫。何人かの人に自慢して、何人かの人から生暖かい笑顔をいただく。

宇宙開発、情報技術、映画、小説、そしてスリランカの生活などについて書かれたクラークのエッセイ集。内容は、多少読みにくくはあるが、面白いことはある意味ではどうでもいいように思われた。無論、彼がいかにスリランカを愛しているかという情熱に満ちたエッセイ集。発行されて二十年近く経った今読んで、うならされるクラークの技術予想や、宇宙開発への夢など、読んで心躍る良質なエッセイ集であると思う。
しかし何より、この本を書いたクラークが今なお現役の作家であると言うこと以上に、驚き喜ばしいことはないのではないか。
この本が発売されたのは1978年、すでにクラークはSF界の長老であり、いまなお長老である。ビッグスリーのうち、アシモフとハインラインはなくなってしまったが、まだクラークは生きている。
もう既に彼は生きているSFの歴史となっているように思われる。

2006年09月19日

投げやりな近況5

関東。


「スミレ16歳」
短期連載は16歳であり、連載は17歳であると、声高に主張した僕ですが、その実、連載は16歳であり、短期連載は17歳であった。けだし、「真実はいつも一つ」、である。


「ユリア100式」
好きずきなんじゃない?
何で買ったんだっけ。あ、そうか。


「カラスヤサトシ」カラスヤサトシ
作者の日常の変な行動や、昔の思い出や、周りの人間を、乾いていないジットリとした視点でギャグに仕立て上げている4コマ漫画。
面白い。僕の中で大ヒット。ギャグマンガでココまで声を上げて笑ってしまったのは久しぶり。
裏表紙に掲載されている4コマを見てプッと吹いてしまった人は、買って帰ると存分に腹筋と表情筋を鍛えることが出来るはず。


「塵よりよみがえり」レイ・ブラッドベリ

SF界隈でタイトルをつけるのが上手い人をあげろと言われれば、僕はP.K.ディックと、このレイ・ブラッドベリをあげる。ディックは「アンドロイドは電気羊の夢を見るか」や、「流れよ我が涙、と警官はいった」など、数えることも出来ないほどパロディにされているものや、堕胎をテーマにした名作「まだ人間じゃない」、あるいは「パーマー・エルドリッチの三つの聖痕」等を見れば、いかに印象に残るタイトルをつけるのが上手いかわかる。ついでに言うなら、映画化されたタイトル数も、SF作家の中では多い方だとおもう。何か関係ないかなあ。
ブラッドベリも、ディックの奇妙な味わいを持ったそれとは違うものの、非常に印象深いタイトルをつける。例えば「ウは宇宙船のウ」、「火星年代記」、「華氏451度」、「太陽の黄金の林檎」。どれもシンプルでありながら、それ自体が既に一つの話となっているような、見事なタイトルになっている。「10月はたそがれの月」に見られるように、訳者が卓越しているのももちろんのことではあるけど。

というわけで「塵よりよみがえり」。これもいいタイトルだよなあ。レイ・ブラッドベリ「塵よりよみがえり」。でもう完成された物語になってると思う。レイ・ブラッドベリ、でこれまで読んできた彼の著作を思い起こさせ、「塵よりよみがえり」で、これから読む話への期待を存分に盛り上げてくれる。
という僕の思い入れはどうでもいいんですが。いいタイトルだなあと、ハードカバーが出たときから気になっていた。けど、あんまりお金がなかったので買わなかった。買っておけば良かった。

この本は「集会」、「四月の魔女」といったエリオット一族ものの集大成である。無数の短編集に散らばった一族の物語を一つに集め、いくつかの書き直し、書き足しを加え一つの長編にした、「火星年代記」のような形式の小説だ。
イリノイ州の片隅、荒野のただ中に経つ一つの巨大な屋敷。そこには<ひいが千回つくおばあちゃん>、ファラオの娘のミイラ、あるいは眠り続けながら、心を世界中にさまよわせている魔女、セシー、消して眠らない<霧と沼地の貴婦人>、塵からよみがえった者たちがいる。そしてただ一人の人間であり、屋敷の前に捨てられた少年ティモシーに<ひいが千回つくおばあちゃん>は屋敷がどうやって出来たのかを語り始める。
その次の日、万聖節に世界中に散らばった魔力を持った者たちが集会のために集まり始める。
元が短編であるため、一つの通った話があるわけではない。しかし、もともとは別々に、しかも五十五年もかけて書かれたいくつもの話が、多少の加筆はあるとはいえ、こうまで見事にまとまっていることには驚きを憶える。
しかし、ブラッドベリの作品に感想を書くのは馬鹿馬鹿しい気もする。この本にはブラッドベリの作品を読むといつも覚える、瑞々しい無数の感情と、新しさがある。それは例えば子供の頃に感じた何かへのあこがれであったり、ちょっとした事に覚えた喜びであったり、そういった普段なら思い出すこともないような感情の記憶に触れる不思議な言葉がそこにはある。
もちろん、彼の作品を読んだことのある人には言うまでもなく。

国の違い文化の違いという壁と、翻訳というさらに大きな壁を乗り越えても、読者に強く届くその驚くべき力を持った作品を、今なお彼が作り続けていることを知れるというのは、非常に嬉しいものです。


 祖母の家にブラザーの複合機を設置する。で、説明書を見ながら色々設定していたんだけど、なんというか、この手のモノが誰でも使えるようにはならないんだろうか、とちょっと思った。いや、ブラザーのは携帯電話的な考え方を導入した素性のいいインターフェースで使いやすいと思うんだけど、それでもなかなか単純というわけにはいかないし、祖母が一人で使えるかというと、まあ、ムリだろうなあと。
 僕だって説明書がなければしんどい。トライアンドエラーである程度どうにかなるだろうけど、それは僕がこの手の機械にはこういった機能があるはずだ、と、脳内モデルがあるからだし、全然知らない新規の機能については、いかんともしがたい。そして当然のように説明書は読みにくい。

あとPCもなあ。まあ、四年前のVAIOでありOSは悪名高いMEなので、精神的には心の底から、肉体的には腹の底から遅いと絶叫したくなる、とてもしんどいのだったというのは、さておきなんか色々思った。
PCは家電には、少なくとも今のところはなり得ないな、という話と言うかパソコンを誰でも使える家電と偽り、売ろう行為はあまりどうかなあと思う。ユーザの行動がOSベンダの想定内であり、かつまたパソコンの動作も想定内なら問題ないんだろうけど、パソコンというのはまあ、割とトラブルがあるモノだし、トラブルが起こると詳しくない人の手に負えない場合も多々ある。
保証期間内とかならベンダに持ち込むなりねじ込むなり問題ないんだろうけど、いやそうであってもまあ「周りの詳しい人」とかになんか不思議な質問がきたりするわけで。パソコンのトラブル解決なんか、下手したら一日なんて簡単にかかってしまうモノであり、知るかボケ、自分で調べろと言う気分になる、と言うのをネットで見るし、まあ、そう思うのもわかるなあとも思うが、それはでも詳しい人の理論であるなあと思ってしまった。あまり詳しくない者としては。
いや、まあ僕の場合は割と前から使っているというのと、兄が良くサポートしてくれたからと言うのがあるため、Windows等では日常生活に支障が出ない程度には知識もあるけど、Linuxとかで少しつっこんだことをやろうとするとよくわからない。というか、あまり積極的に学ぶ気がないというのが一番問題ではあるんだけど、それはまあ、PCに疎い人にとってのPCに対する態度と同じなんだよなあと思うと、そういう人に対してどうこう言うのは問題ある。所謂ハッカー的な興味は結局僕の中には全く存在しない訳で。環境的に恵まれていただけであり、特に資質があるわけでもない。というか資質がある人が僕と同じ環境だったら、腕の立つハッカーとかになっていると思う。
というわけで現状で僕が、Linux関係とかでは「周りの詳しい人」に多少は世話になっている以上、そして「自分で調べろ」での向上心もあまりない以上、教えて君的な人に対する攻撃的な感情を僕が持つのは適切ではないように思われる。
まあ、自分が使えないモノを使うなという事なのかも知れないが、それでも私語となりなんなり環境的に使わざるを得ない可能性はいくらでもある。もちろん聞く側の人間性の問題とかはあるんだろうけど、それは枝葉末節なのでさておく。

と言うわけで問題は、そんな問題の起こるパソコンとかだよなあ、と。
いや、昔に比べれば天国のように簡単になっているとは思うんですが、と言っても知っている昔はPC98程度であり、Configを書くのを兄にやってもらっていたんですが、それを差し引いても、今のMac、Windowsはずいぶん楽になっていると思う。Linuxだってインストールとかはずいぶん楽だし。

でも、なんでココまで枯れないのか、とちょっとは思ったりする。
思ったりするが、パソコンが万能計算機であり、何でも出来る魔法の箱であり、性能と機能向上が明白な運命である限りは枯れることはあり得ないので、仕方はない。まあ、性能機能が良くなるにつれインターフェースとかいろんな思想とかが変わっていくのは何だなあと思ったりはするけど。それも制作者側がより良くしようとしてやっているんだし。良くなるかどうかはともかく。

しかし現状パソコンがネット及びメール専用機になっている場合が多いし、何とかならんもんかなあ。音楽とかそういった部分については、iPodと言った特定用途の専用機があるし、他の機能についても専用機が出来ていかんかなあ。iTuneと同等機能(それ以上でも以下でもない)のあるメディアサーバとか? そういう機能を限定した多数の機械に逆戻りすることで、使いやすさを向上させていくのも良さそうだよなあと。金があれば。
で、ネットとかインターネットについてはどうなんだろう、とか思っていたら、この前のNintendoのWiiに関する発表を読んでて、コレWiiチャンネルでいいんじゃないのってきになってきたけど、メールは出来ないっぽいけど。

パソコンで何でもしようという感じのは貧乏人の発想になってくるのかなあ、と思ったり思わなかったり。パソコンでしかできないこともあるわけだけど、もちろん。それ以外については。


結構SFがおいてある古本屋を見つける。量はそれほどでもないけど、サンリオとか名前忘れたけどハヤカワの昔の新書サイズの叢書がおいてあった。値段は余りやすくなかったので絶版本、と思われるモノの中から4冊買った。一冊はサンリオなので確実に絶版なんだけど、創元SFとかで再版される可能性はある。あとはハヤカワ。
という感じだったけど、一冊は絶版じゃなかった。まあ、アシモフだもんなあ。冒険しなさ過ぎだな。功力が足りない。


といっても最近だとAmazonで買う方がよほど安く手軽に手に入るんだけど。
しかしネット経由だと、偶然入った古本屋で何年もなんとなく探していた絶版本を見つけたときの感動とかは味わえない。世の中にあれほどの感動はそうはない。


東京ドームの本屋に行ったら、野球や格闘技などスポーツと、競馬などギャンブルに関係する本が前面に押し出されていて面食らう。あと、サブカル系の本とか。こんな本屋見たことない。と思ったけどよく考えれば東京ドームだもんな。客層が知れて興味深い。


アルフィーのアルバム「Non Stop」を聞きながらiTunes7のギャップレス再生に感動する。多少ギャップがあってもそんなに気にならないよ、とか思っていたけど、こうしてギャップがないのを聞いていると全然違うなあ。聞いていて引っかかるところがあると、意識がそっちに引っ張られるので気持ち悪かったんだな。

2006年09月14日

近況4


d060913.jpg

久々にコピック系のマーカーで塗ってみた。正直肌系の色が十二色あってもどれを使うかさっぱりわからない。乾くと全然違う色になるしなあ。
黒で適当に髪に線を入れたら残念なことになった。


空き巣に入られる。
まさか自分の所にという感じにはなる。
が、まあ特に何ともなかったので良かった。

■「八つ墓村」横溝正史

ミステリーとかに対する興味は常に低空飛行なので横溝正史読むの初めて。

戦後復員して神戸で会社員をしていた主人公は、戦国時代に村人が殺した落武者を守り神とあがめる八つ墓村の資産家の跡取りであると言うことを知らされ、村へ行くことになる。主人公が村に到着するのにあわせるように、落ち武者の祟りが再び村を襲ったかのような殺人事件が相次いでおこるようになる。
という感じ? 適当だけど。

謎解き部分とかには興味はないし、あからさまな目くらましの部分は正直どうかなとも思ったけど結構面白かった。山あり谷あり、アクションっぽいのもあったり無かったり。適当な感想。古い農家の雰囲気、跡取りの話とかは、殺人事件云々を抜きしにしても興味深い。後の時代の人間がいくら資料を集めて書いても、その時代の人間が書いた文章と同じようなモノは書けないのかなと思う。作品の空気というか。昔京極夏彦とか読んだときに思ったんだけど。

まあ、それはともかく話には聞いていたけど、金田一耕助の役にたたなさは、なかなか感動的ですらある。他の作品を読んでいないので、何とも言えないが、この作品に限って言えば、作中で金田一本人が言っているように、殆ど彼の関知していないところで事件が収束している。
なんというか、彼のこの作品での役割は、「そして誰もいなくなった」の最後の手紙程度のような気がする。事件が終わった後に、いったいどういう事件だったのかを読者に説明する係というか。

ミステリーを読むときの僕の問題点は、犯人当てに全く興味が湧かないと言うことのような気がする。多分ミステリーファンはそこを楽しむんだろうけど、正直誰が殺そうがいいじゃないの、と思ってしまうので特に何も考えず読んでしまい、作家と読者の知恵比べという七面倒くさいことをする気にはなれない。
おそらくパズルのようで楽しい、とかそういうことなんだとは思うけど……。

横溝正史の他の作品はどうしよう、「悪魔がきたりて笛を吹く」とか「犬神家の一族」とか、有名どころを何作品か読んでみようかな、と言う気もするけど、正直結構お腹いっぱいだ。


「チャーリーとチョコレート工場」映画

ティム・バートン監督、ジョニー・デップ主演ということで話題になったような気もする映画。レンタル早いよね。

毎日のご飯にも事を欠く貧乏一家の子供チャーリーは、世界のお菓子王、ウィリー・ウォンカのチョコレート工場の招待券を当てる。一緒に招待された四人の子供と工場に入ったチャーリーは、その中で驚くべきものを見る。

と言うわけで素晴らしい。おもちゃ箱をひっくり返したような作品。これぞファンタジーと言うのにふさわしい映画じゃないだろうか。
工場の中で繰り広げられるナンセンスで、想像力を突き抜けた風景や、次々と起こる珍妙な事態。そしてどんなに変なことがあっても、そこがチョコレート工場である、全てはお菓子作りのためであるという事実が、全てに何ともいえない馬鹿馬鹿しい雰囲気を作り出している。
それでいて実は話は、素直な子供はいい目に会うよ、という教育的で真っ当な話になっているのも個人的にはポイントが高い。童話の王道というか。見ていて安心感があり、個々の愉快な場面に集中して楽しむことが出来る。
ジョニー・デップの神経質そうなキャラクターの演技が実に上手い。他の一癖もふた癖もあるようなキャラクターもみんな上手く演じている。

あと吹き替えが上手いよなあと思った。このレベルが保証されるなら、もう映画館で字幕で見る必要なんて無いような気がする。情報量なんか比べるのもあほらしいぐらい違うわけだし、なんで字幕にこだわるのかよくわからない。
いや、英語の聞き取りできる人なら問題ないだろうけど、そういう人ならそもそも字幕はいらないし。

いやそれはいいけど映画はとにかくスゴイ面白かった。最後の終わり方も非常に良かった。映画館で見ても良かったなあ。

2006年09月11日

近況3

今日も僕は元気に本屋に行ったのだが何も買わずに帰った。


「ナルニア国物語:ライオンと魔女」
C.S.ルイスの有名ファンタジーの映画。小学校の時読んだ。そして大学はいってから何を思ったか一巻だけ英語で読み直したわけですが、童話ですらこんなに時間がかかるというかしんどいなら、英語で本を楽しみのために読むのはきついなあと思った。
そういうわけで僕が英語力を向上させようなどということは思わなかったという話ですが。思っていたら今頃論文読むの楽だったのかなあとかはふと考える。
それはどうでもいい。

で、ナルニア国物語ですが、よく映像化できている。
ナルニアの風景も人間以外のキャラクターも効果もすべて自然に作品になじんでいる。こういったいわゆる超大作はハリウッドだからこそだなあと思う。さすが。
話は原作どおり、のはず。手元に本があるわけではないので確認できないけど。話の展開を知っていたので、もう少し手早く進んでほしいと思うところはあったけど、それは最近の僕の変なこだわりのせいでもあるので、普通に考えれば適切だろう。
原作読んだ時も思った、アスランがよみがえる時のそれありかよ、とか伏線なしで唐突に新しい設定が出てきたりするのはちょっと引っかかるけど、それは原作を忠実に再現しただけであり、映画云々という話ではない。
というわけでネット上であまり評判がよくなかったのでどうなんだろうと不安ではあったけど、思ったよりずっとよかった。どうも見てみると、ロード・オブ・ザ・リングのようなものを勝手に期待して、裏切られている人もそれなりに見受けられる。指輪物語とナルニアに同じようなものを期待するなんてアホかとも思うが、予告編をぱっと見た感じだと、同じように見えるのかとも思う。それは配給側の問題でもあるんでしょう。
まあ、同じファンタジーだしね!!!

ちょっとなんだった点を上げるとするなら、ディズニーだからか、血が一切出ないのは違和感を覚えた。狼を至近距離で剣でさせば返り血は浴びるだろうに。あと冒頭の空襲シーンが不必要に迫力があるというか、いわゆるハリウッド的だったのは浮いていたように感じられた。それぐらい。


「レジェンド・オブ・ゾロ」

怪傑ゾロの映画。
「マスク・オブ・ゾロ」の続編であることを見始めてから知る。が、むろん「マスク・オブ・ゾロ」は見ていないのですが、気にしないで見た。

アメリカに併合される直前のカリフォルニアを舞台に、併合に反対する人間、反アメリカの秘密結社にゾロが八面六臂の大活躍をするアクション大作。歴史的背景がさっぱりわからないので、カリフォルニア人がなぜ熱烈にアメリカ人になりたがっているのかはよくわからん。米墨戦争とからしいが投票の詳細とかがよくわからない。まあ、そんなことはどうでもいいアクション大作。
割と面白かった。
アクションはすごい。ちょっとあほみたいだけど、それもまたいい。主役の人はこういう少し抜けた、しかし決めるところはきっちり決めるヒーローを演じるのが上手い。剣戟とかも非常に迫力がある。マッハみたいに、リアルで痛そうとかそういうのはないけど。
話も良い。シリアスになりすぎず、コメディになりすぎず。どっちも楽しめる。うまく見る人に適度にストレスを与え、最後にはすっきりとカタルシスを感じさせる。これぞハリウッドと、ご老公の両脇にいる人に印籠として見せ付けたいぐらい。

メイキングを見たけどすごい。バンデラスとか体張っているなあ。でも悪役やっていた人の、死にたくないから危ないのは全部スタントマンがやってほしい見たいな発言は、思わず普通そうだよな! とうなずいてしまった。
普通そうだよな。


今日だらっとどこぞのブログを読んでいたんですが、昔のとんねるずはすごかったみたいな話が載っていたんですが、それを読みながら僕の頭に浮かんでいたビジュアルはダウンタウンでした。
まあ、かなり似ているし、間違えるのも仕方がない。と思うんだけど……。

近況2


寝た起きた食った読んだ見た寝た起きた食ったネット寝る。


「チーム・バチスタの栄光」海堂尊

このミステリーがすごい、の2006年大賞をとった作品。普段はミステリーあまり読むわけではないけど、薦めらて読んでみた。
うん、面白い。
大学病院という白い巨塔を舞台に、出世街道から身を引き、窓際外来で患者さんの愚痴を聞きながら楽しく暮らしている主人公が、院長の命令で心臓手術に27件連続で成功しているエリート率いる心臓手術チーム「チーム・バチスタ」の三件連続術死という問題をなぜか調査する羽目になる、という話。
作者は実際に外科医らしいので、ディテールはかなりすごい(と思う)。細部まで完璧に正確(なんじゃないかな)。というわけでリアリティーが話に確かな説得力を持たしています。よくわからないけど。

キャラクターが魅力的、かつよくたっている。そしてキャラクターの性格が、このミステリーの真相を二重三重にも取り巻く謎になっている。調査を受け入れた主人公は、チームの構成員一人一人に聞き込み調査をする。それにより外からは完璧に見えるチームにも、実は問題が存在することがわかる。問題を解決できない主人公に、さらに途中から厚生労働省の変人役人が突入してくることで、で主人公が作ったチームメンバーの人間像が役人さんに引きずられるようにシッチャカメッチャかになり、問題が発散しているように見えつつ、最後には連続術死と、なぜ主人公が調査をすることになったのかという二つの謎に収束していく。
で、話もいいけど語り口もいい。主人公の飄々として病院内では多少浮世離れしつつも、厭味のなく実はかなり人間的な性格が話に軽妙さを与えていて気持ちがいい。普通に考えたらいやな人間すら彼の視点を通すことで愛すべき人格へと変化している。現実に存在するシリアスな問題も丁寧に織り込み、程よい謎と、上手い話運び。読後感もよく、非常に満足度の高い小説だった。

非常にどうでもいいが、さるまん的にいうと主人公と病院長の関係はサラリーマン金太郎的だなとちょっと思った。それはともかくサラリーマン金太郎を略すとサラ金になるが曖昧性を解消するのが困難であるため、使用は適切ではなさそうだ。サラ金太でいいか。

解説のところで大森望も書いているけど、シリーズ化してほしいと思った。白鳥を軸にして、さまざまなところで起こる問題などを彼が解決していくような話で。できれば本作と同じように主人公は別にして、毎回途中から白鳥が現れるみたいな感じだといいよなあ。話だけでて出てこなかった姫宮も見てみたい。
医者との二束の草鞋だしそう多く小説を書けるわけではなさそうだけど、これからの作品にも期待。

こういう作品を読むと、もっとSF以外のジャンルの小説も読めば面白いんだろうなあとは思うけど、結局すでに自分の中に評価基準と知識があるSFに落ち着いてしまう。
僕だって! 自分の殻を! 破りたい! んだ!!


「ビッグバン宇宙論」サイモン・シン
というわけで。どういうわけで? 「フェルマーの定理」と「暗号解読」でスーパーサイエンスライターっぷりを日本の僕らに見せ付けたジョンブル、サイモン・シンの新作を二ヶ月放置した挙句「ふっ、そろそろこの本を読む時がきたようだ」見たいなせりふを僕が言ったか言っていないか。が、読んだということだけは、その、ほら、神とかそういった雰囲気のものに誓って間違いない、と僕は言っています。

というわけで、読んだ! ブラボー!!

ビッグバン宇宙論とあるので、ビッグバン宇宙論の一般人向けの解説書かというと、そうではなく、神話から始まる人間の宇宙に対する考え方、理解の変化、そして現在のビッグバン宇宙論に至るまでを、プトレマイオス、アリスタルコス、コペルニクス、ニュートン、アインシュタイン、ハップルといった科学者たちのドラマを通じて描く、壮大な科学史の傑作。
前二作もまた、科学史の色合いが強かったけど、本作は宇宙論という科学の超王道を描くことで、宇宙にとどまることなく科学とはそもそも何かという本質的な問いに対する、ひとつの鮮やかな回答を描き出しているように思われる。
仮説、検証、という科学研究において基本となるサイクルが、宇宙論においてはどうだったか。すなわち理論と観測という宇宙の研究における車輪の両輪が、お互いにどう影響を与え合い、そして宇宙のモデルを作っていったか。
理論のない観測、観測が支持しない理論。
たとえば一時は主流であり、観測結果にも支持されていた理論が、観測機器の発達により、反例が見つかるようになる。はじめはその反例自体を攻撃する、それが無理なら、理論を調整することで旧来の理論を守っても、反例が積み重なることで、理論はもはや擁護不可能になり、新たな理論が立ち上がり、観測結果を説明し、そして予想することで認められ、パラダイム・シフトが達成される。
あるいは純粋に理論的な考察から作られた新しいモデルが、未知の現象を予測し、当てることで旧来の理論を書き換え、やはり新たなパラダイム・シフトが起きる。そしてその理論が……
宇宙論の発展は、そういったパラダイム・シフトが何度も起こることで発展している。そしてその裏には、大物の科学者が、人生の大半をかけた旧来の理論を守るために、新たな理論を否定したり、あるいは自分たちの理論がもろくも崩れ去るのを見る、あるいは新たな理論、正しい理論を提唱した人間が、主流の科学者に否定され、研究を放棄することになったりするような、そういったどうしようもなく人間くさいドラマが繰り広げられていたりする。そういった新と旧のせめぎあう境界面での闘争に十分勝てるだけの理論が、研究が生き残っている。そこにあるのは理論同士の殺し合いのようでもある。そして最終的にはより観測結果を説明する、正しい理論だけが生き残っていく。
むろん科学者個人で見れば間違えもするし、必ずしもすべてにおいて「科学的」ではないのかもしれない。長く付き合ってきた理論には愛着もわくだろうし、思想的なものが前提として結果の見方を左右してしまうのもあるのだろうと思う。しかし、科学は全体としては、寄り道をしても長い目で見れば正しい方向に行き続ける、そういった非常に強力な方法論であることをこの本は教えてくれる。

「ビッグバン宇宙論」は、宇宙論を語ることで、人間の宇宙の見方の歴史的な変化を教え、宇宙論の発展を支えた人々の心躍るドラマで楽しませ、ビッグバン宇宙とはいったい何か、を非常に簡明に理解させ、そしてそもそもそれらを支えた科学とはどういうものなのかを知らせてくれる。
この本はそういった二重三重の視点を、巧妙に織り交ぜ、そして何より信じられないほど読みやすく面白いものになっている。そのバランスは絶妙であり、どれにも不必要に詳細になることなく、それでいてどの部分にも新たな知見を与えてくれる。
こういった本を読むと読書をしていて本当によかったと思う。

2006年09月09日

近況


渋谷のブックファーストの二階で、「SF入門」みたいな平台企画をやってた。で、「塵よりよみがえり」と「ストームブリンガー」を購入。SF?
最近話題のから古典まで結構いい感じ。九月末までやっているらしいので行くと幸せになれるかもしれない。誰が興味を持つのだろうとか思ったけど、結構見ている人いる。

あと我が家の空調様が逝かれた。


「コラプシウム」ウィル・マッカーシー
前作「アグレッサーシックス」も素晴らしいSFだったけど、これもまたスゴイ。
ブラックホールを立方体に組み立てた崩壊子をつかって作られる”コラプシウム”によって社会が一変した世界の話。通信を超超光速化できるだけでなく様々な用途に使える(らしい)コラプシウム。用途によって自由自在に性質を変えることが出来るウェルストーン。そして人や、モノを自由自在に、スキャンし再生産することの出来る機器。
ファックスによって人は自由自在に世界を行き来できるようになり、またフィルターを使い、スキャンした人間のデータから病気などを取り去ることで、不老不死を達成した社会。もし不慮の事故で死んだとしても、ファックスのキャッシュから容易に再構成することが出来る。

と、どれ一つをとっても人間社会を大きく変えることが出来る技術が達成された世界が舞台になっている。
一方で社会制度は、民主制から王政に再び戻っている。人は個人個人が自分自身と社会に責任を持つかわりに、太陽系に一人女王をいだく事を選び、そのために地球に唯一残っていた歴史ある王家、トンガ王国の王女がソル女王国の永遠の盟主として強制的に選ばれてしまっている。

主人公は世界を一変させることになったコラプシウムの発明者であり、それによる膨大な財産と、社会的な名声につぶされそうになり、カイパーベルトにミニチュア惑星を作り隠遁し、そこでコラプシウムを使った実験を続けていた。
一方ソル女王国ではコラプシウムを使って太陽をぐるりと取り巻く輪を作り、太陽を挟んだ軌道の反対側同士の情報通信を超光速化させる、リング・コラプシターを作っていたが、事故によりリングは太陽に落下し始める。リングが太陽に落ちれば、太陽は最終的に死んでしまうが、有効な手段はとれないでいた。そこで隠遁していた主人公、ブルーノの所に女王から助けが求められることになる。

という導入。
うーん無駄に長くなった。

というわけで科学考証部分はとにかくハードSF。
正直読んでもわからない。そもそも話の中核にあるコラプシウム自体がちゃんとしたイメージはつかめない。途中にあるキャラクター同士の議論なんか付録に回されちゃっているし。
しかしそんなことはどうでも良くなるぐらい面白い。
科学考証の部分は、むしろアーサー・C・クラークの有名な言葉に託して気にせず、それが達成したモノを楽しめばいいと思う。ウェルストーン、ファックス、それだけでももちろん魅力的だけど、それがどう人を変えているかというのもまた、面白い。例えばファックスによって人は所謂ワープのようなモノが出来るようになっている。同時に人をデータ化して物質化するというプロセスにある以上、容易にバックアップ、そしてコピーを作ることが出来る。
イーガンならここでアイデンティティの話で一つはなしをぶちあげるところだけど、コラプシウムの世界の人間はそんな事は全く気にしない。まあ、そういう技術が出来たときならいざ知らず、もう何十年も経っているんだから当たり前かもしれないが、この世界では人は自分のコピーと自分自身がどう、と言ったことには悩まない。仕事が複数あればそれだけ自分のコピーを作り、終わればまた統合してまた一つに戻ったりする。
無論こういった社会の変化を取り扱うSFはいっぱいあるだろうけど、その変化にキッチリとした基盤を作り、そしてその変化を単なる前提として、非常に面白い娯楽小説を作り出しているのは、ウィル・マッカーシーすげえと言う話になる。

この人の作品には最先端のSFであると同時に、舞台設定などに関して言えばむしろ古い印象を受ける。アグレッサーシックスは宇宙の戦士等、所謂宇宙人との戦争物という古くさい題材だけど、多くの場合戦争の理由に必然性が無くなるところを筋の通った理由をつけ、それを物語の殻となる謎とすることで、ミステリーであり、ハードSFであり、エンターテイメント小説である新規さを感じさせる良作にしている。
一方コラプシウムは、レンズマンやキャプテンッフューチャーといったスペース・オペラ的な世界を舞台に、荒唐無稽さなガジェットや理論や話展開になりがちなスペース・オペラに確かな理論的な基盤をあたえつつ、スペース・オペラの魅力である壮大なキャラクターや話の広がりを両立し、やはり新規でありながら懐かしい、親しみやすい魅力、面白さも持っている素晴らしい小説になっている。

まとめれば、ハードな部分はイーガン顔負けであり、一方キャラクターや話はキャプテンッフューチャーにも匹敵するエンターテイメント、という感じだろうか。

ハードSF的な部分をのぞけば、十分キャラクター小説としても売れるぐらい良くできている。そういう意味で、話題になった表紙の装丁にも好意的な評価をするべきなのかもしれないけど、まあ、僕に限らず読み終わった人はとりあえず一言、何でお前が表紙なんだとつっこみたくなるはず。


「順列都市」を適当にとばしつつ読み返していたんですが、オートヴァースのランバート人が自分の世界を統一的に理解できる法則を発見したところは、「統一理論」のアレとアイデア的には似ているのかなと言うか同じなのかと思ったけど、「統一理論」をあまり理解してないので何とも言えない。


セスタス12
んー勝っちゃうんだよなあ。結局。いやまあ。うーん。
セスタスがそこまで強いことが納得できない。
格闘描写の上手さはいつも通り最高。


二十面相の娘1
話は、悪くない、と思うんだけど、とにもかくにも読みにくい。
でも、もの凄く雰囲気はあるんだよなあ。なんなんだろうこれ。
残念。


ウは宇宙船のウ
ブラッドベリの「ウは宇宙船のウ」と「十月はたそがれの月」から八編の短篇を萩尾望都が漫画化した作品集。
萩尾望都すげえ、で終わってもいいよな気も。ブラッドベリの短篇の雰囲気を見事に画像化している。すげえ。
しかし「恐るべき子供たち」を読んだときも思ったけど、萩尾望都の緻密な絵は文庫サイズだと読みづらい。普通の単行本サイズで欲しいなあ。


コミティア77の見本誌読書会に行った。
昼頃まで忘れていてあわてていったんですが、到着してみるとそこそこ広い部屋に机が並べられ、それぞれにはうずたかく同人誌が。そしてそれらを黙々と読む人たち。
ちょっと帰りたくなった。けどせっかくなので。
しかし圧倒的な量に、みるみるうちに衰弱しつつ、最初のうちはぜんぶそこそこまじめに見ていたけど、どんどん見切りが早くなる。
しかし何というか……。まあ、僕も頑張ろう。
何故か知らないけどもの凄く疲れたので、帰ったら寝てしまった。

2006年09月03日

床に関する私の主張

部屋を片付けることにより、家具がしめる割合を除いた床面積のほぼ百%を露出させることは、精神衛生上非常に素晴らしいことに思われる。また、露出した床表面をホウキ、及び雑巾によって清潔に保つことは精神に限らず衛生上良いことだと思われる。
しかし一方で十分な面積が確保された清潔な床は、その上に横になると言う新しい欲望を人間にもたらす。夏の暑い気候は、冬の寒い時期にもっとも強くなるベッド、布団の上に横になりたいとおもう欲望を著しく減衰させる。冷房機器によって部屋の温度を十二分に下げればその限りではないが、布団の上で横になりたいという欲望を持つために冷房機器に電気を食わせ、財布に負担をかけようとする人間はそう多くないと予想される。
ただし、布団の上でという条件をのぞけば横になりたいという欲求は気温に限るモノではなく、通年存在するモノである。それは単に布団の保温機能が夏に必ずしも適していないという状況から、他に横になる有力な選択肢がない場合抑圧されるだけである。
そこで、床が新たな選択肢となる。カーペットなどが引いてある場合はその限りではないが、床は布団とは違い保温機能はそれほど重視されていない。そのため、八月九月という気温の高い時期においても、その上に横になって不快に感じるモノではなく、特にフローリングなどに限った場合、冬には非常に不快に感じる温度の低さは、夏にはむしろそのためにあつらえたかのような快適さを提供する。
また、布団に比較したときの床面積の大きさは、たとえじっと一カ所に横になっていたために体温によって床が暖められたとしても、少し体をずらせばまた快適な涼しさを得ることが出来るという、重大な役割を果たす。ずらした場所がぬるくなればまた元の場所に戻ればいい。かように床というモノは夏において、横になるのに非常に適しているものである。そのような床を使用可能にする片付け、及び清掃は、あるいは私のような人間にとっては怠惰への重大な第一歩を提供するモノなのかもしれない。
さて、そうは言っても床にも欠点がないわけではない。大きな欠点としては、フローリングの床は涼しさという点では群を抜いて快適とはいえ、体を横たえるにはかたすぎるという問題点がある。短時間のごろ寝においてはさほどではないモノの、睡眠、あるいは長時間の読書を行うとき、関節などへの負担は無視できないモノとなる。もう一つは、長所が短所になってしまう事ではあるが、体温が奪われすぎてしまう場合があると言うことである。背中、あるいは腹部などを過度に冷やすことは体調を崩す原因となりかねない。床に寝ることは一時の精神的な快楽のために、体の健康を損なう可能性すらある。
故に私は、これらの欠点を改善した、横臥用床というものが開発されれば、非常に需要があるのではないかと思う。かたすぎない、低反発素材を用い、湿気は逃がしても、温気は逃がしすぎない床。そういった新時代の床が、そろそろ生み出されてもいい頃なのではないだろうか。

さよなら八月。

と、ふと気がつけば九月であり、目を覚まして窓を開けてぼーっとしていると僕の家の前の通学路からは学生の声が聞こえ、ああ、世間的に言うところの夏休みは終わったんだなあと感慨にふけりながら、結局ぼーっとしていました。
しかし、大学生の休みは、というか授業が始まるまではまだ一ヶ月ぐらいはあるのだなあと沈思黙考する。実に哲学的な思考である。
僕も今はやることはあるのでそこまでではないのですが、学部生の時の休みは二ヶ月も頭使わないので、新学期が始まると苦労しましたね。あと新学期は板書を取ろうとすると、字が書けなくなっているのがきつい。変に力が入るのか、一、二限ノートを取るだけで手が疲れるので。
そういえば先学期はパワーポイントの授業が殆どというか、全部そうだったから全然ノート取ってないなあ。パワーポイントは睡眠欲に対する強い親和性を発揮するので油断ならない。



三省堂本店に行ったら画集にビニールがかかっていなかったので、ぱらぱら見ていました。比較的最近出た山田章博のファンタジーアートワークスの中を見て、まあこれは買わないでいいか、と思っていたのですが、今日部屋を片付けているときに本棚にあるのを発見してしまいました。
……まあ、そんなこともありますね。それにしても買わなくて良かった。

どうでもいいけど山田章博の絵はカラーより白黒の方が好みなので、モノクロ画集もっとでないかなーとおもう。ラーゼフォンとか忍とかじゃなくて、挿絵画集がもっと出て欲しい。


昨日十二時ぐらいに、よし今日は早めに寝ようと思い立ったのですが、どうしてか部屋を綺麗にしてから寝れば朝起きたら爽快な気分になれるんじゃないかというよくわからない考えにいたり、片付け、掃除してから寝たら結局いつも通りだった。
起きたら朝じゃなかった。
部屋を綺麗にすると、こう、満足感に浸れるんですが、片付いた部屋を眺めるだけで何もする気が起きなくなります。あと床とかに転がったり。でもよく考えたら汚いなら汚いで何もやる気が起きないような気がするので、部屋の状態ではなく、もっと別の問題だと考えることも強いて言えば不可能ではありません。
と言うわけでとりあえず黙示の島→孤島→と言う思考の流れでミナミノミナミノ再読。一年半ぐらい経っているけど、続きでないなあ。それをいったらE・G(以下略


「さよならダイノザウルス」ソウヤー
素敵。
タイムマシンが出来たので、恐竜が滅亡する原因を探ろうと考古学者が二人、時間旅行に出かけたら、そこには言葉をしゃべる恐竜がいて……。
という感じの話。これより先を書くと、何を書いてもネタバレになりそうなので書けない! と思ったけど、ココ読んでいる人でこれから先この本読む人いないんだろうなあ、と思ったけど、一応書くのをやめよう。
この本では、恐竜は何故絶滅したのか、恐竜はなぜあれほど巨大化したのか、といった未だに明確な答えが出ていない(んだと思われる)いくつかの問題について、想像を絶する回答を用意してます。それをどう受け取るかは読者によるんだろうけど、とりあえず僕はよくもまあ、こんな事思いついたと思いました。
人間ドラマとSF的な仕掛け、センスオブワンダー、冒険小説的描写、等々様々な要素をどれにも偏りすぎることなく見事な娯楽小説になってます。この辺のバランスの良さというか、SFとしての斬新さを持ちながらここまで読みやすく無心に楽しめる話というのは凄いですね。
R.J.ソウヤーは4冊しか読んでいませんが、何といえばいいのか、著者の人柄の良さが感じ取れるような作品ばかりですね。ああ、いい人だろうなあと思わせる。


「グノーシス 古代キリスト教徒の<異端思想>」筒井健二
グノーシスとかよく作品中で見たりするので、多少は前提知識をつけと思ったので読んでみた。ほら、EDENとかハイペリオンとか、思いつかないけど他にも色々あるに違いない。と言うわけで、僕の好きな書評サイトで絶賛されていたので、グノーシスの平易な解説本を読んでみました。

研究者が書いた本なので、厳密さを保つため、著者がどういう立場で書いているかというのを、研究の背景などを含めてしっかり書いているので、多少読みにくいなあと感じたのは多分僕が歴史関係の本を全然読まないからでしょう。ただそうしてなおそれなりに分かりやすいのはさすが。それはともかく、もう歴史的経緯とかはいいから適当なスナップショットをバーンと出してくれと化短絡的に思ったのは内緒だ。
基本的にキリスト教グノーシスの最盛期である二世紀前後の主な三派の思想について述べ、それらと所謂正統派キリスト教会との関係、その前後の時代のグノーシス、といった感じで説明しています。
各派のグノーシスが大体満たしている要素は次の三つだそうで。
・反宇宙的二元論
・人間の内部に「神的火花」「本来的自己」が存在するという確信
・人間に自己の本質を認識させる救済掲示者の存在
なんだこりゃ。
善なる至高神と創造主は別であり、この宇宙は創造主が作った劣悪なモノである。しかし人間の中には至高神につながる要素がある。人間はその至高神につながる要素を認識(グノーシス)することで、至高神のところへ戻ることが出来るが、何もしないときがつかないので、至高神が啓示者を使わしてくれる。つー感じでいいんですかね。多分。
まあ、派によってこれに当てはまらない場合もあるみたいなので何とも言えないそうですが。
EDENに出てくるプレーローマとかアイオーンとかプロパテールとかそういうのはウァレンティノス派の用語というか、世界観らしい。プロパテールが至高神で、そのパートナーがエンノイア、そこから生まれてくる神格がアイオーン、最後のアイオーンであるソフィアがなんかしたので創造主が生まれたりなんなり。はあそうっすか。

キリスト教と言えば今のキリスト教になじみ(というほどのものでもないけど)がある僕らには変な事考えるなあと思ってしまうけど、むしろキリスト教の考え方をかなり理論的に詰めていった結果生まれたんだなあというのが驚き。また、それに反駁する形で正統派教会が理論的に教えを体系化していったみたいなことが書いてあったので、面白いなあと思いました。旧約聖書の創世記の所とか無からの創造という考え方がそもそも無いとか、なんとか。原始キリスト教から今のキリスト教ができる過程というのも読んでみると面白そうだなあと思ったけど、僕が読んでもわかるレベルの本なんてあるのかな。

うーん思想史とか哲学史とかにはまるのもわからんでもないなあ、と思った。そんなにはわからないけど。



小林泰三の「脳髄工場」ってチャンの「あなたの人生の物語」のホラー的な翻案と考えることも出来るなあ。と今ちょっと思った。というよりこの手の話って既にジャンルとしてあるのかな。SFに限らず考えつきそうと言えば、考えつきそう。まあ、後出し的にそう思うだけですが。
イーガンの「百光年ダイアリー」もそのバリエーションとも考えられるけど、アレはそれを崩すことでアイデンティティーを確率する話で、脳髄工場とは正反対の話だよなあ。うーん僕の狭い知識ではぱっと思いつかないけど、他にも多分あるんでしょう。意識して探したことがなかったのでよくわかりませんが。