2006年09月23日

近況とは黙して語らない事である

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タイトルつけるのが上手い人ジェイムス・ティプトリー・ジュニアと、コードウェイナー・スミスを忘れていた。
前者の作品はあんまり好きではないけど、タイトルは上手いと思う。「たったひとつの冴えたやりかた」とか「愛はさだめ、さだめは死」とか。「老いたる霊長類の星への賛歌」。うーん。でも原題知らないから何とも言えないけど。内容も実を言えば二冊ぐらいしか読んでいないので何とも言えないけど。あーでも「星ぼしの荒野から」の前半の方のは良かったなあ。「ラセンウジバエ解決法」とか「天国の門」とか。ディックを思わせるような、皮肉な感じがある。って、前もなんか書いた気がする。
スミスは「人類補完機構」シリーズで有名だけど、作品名の付け方もいい……と思ったけど、見返してみると特筆するほどではないなあ。「シェイヨルという名の星」、「ノーストリリア」等、個人的には好きだけど、それはどうも作品に対する感想というか、作品のあの絶妙な文体によって与えられる固有名詞、上記のだとシェイヨルとかノーストリリアとかから想起されるある種の感情によって、印象づけられるているからのような気がする。
読んだ後だといいタイトルに見えるというのは、どうなんだろう、もちろん作品の良さからくるモノではあるんだけど、それならわざわざタイトルをどう、と言うほどでもないかなあ。
でもそれを言えば、前書いたブラッドベリとかだって、読んだことのない人にどう見えるかわからないなあ。



そうだ、「ビッグバン宇宙論」を読んで気になっていた言葉を引用しようと思って忘れていた。
僕は前から疑問、と言うほどでもないんですが多少不思議だったことがあります。
物理では理論家と実験家がいて、両方をこなせる人は殆どいないと言います。なのですが、実験家というのは実に、泥臭いというと失礼ですが、なんか大変そうだなあ、どうして志望するのだろうという割と失礼な疑問があったのですが(特に天文学なんて今とは比べものにならないほど大変だったと言うし)、本の中にあった言葉で氷解しました。
ハッブルの助手をしていた天文写真家のミルトン・ヒューメイソンの言葉です。

「私はこの仕事の中で自分が果たした役割が、いわば基本的な部分だったことをいつもありがたく思ってきました。それは永遠に変わらない部分です――それが意味するところについて、どんな判断が下されようとも。私が測定してスペクトル線は、永遠に私が測定した位置にあります。速度も、赤方変移と呼ばれようが、最終的にどんな名前で呼ばれることになろうが、変化することはありません」

なるほど。
元々はラバ追いをしていたということで、もしかしたら実験家の中でも変わった考え方の人なのかも知れませんが、それでも実験家の動機についてこれ程納得出来る言葉は始めて読みました。


「暁の女王マイシェラ」マイクル・ムカコック

エルリック・サーガあらため、永遠の戦士エルリックシリーズも早くも第三巻。まあ、とっくに第4巻は出ているし、僕の本棚にも入っているんだけど、割と放置気味。再来月からついに未訳の「夢盗人の娘」とかが発売されるので、その辺は割と期待……していいのかなあ。と、読んでて不安になったけどそれはそれとして。
何にせよ新版は字が大きくて読みやすいですね。
永遠の戦士エルリックシリーズは、まあタイトル見ればわかるとおり、ファンタジー(と言い切っていいのかは知らないけど)。話をざっと説明すると以下の通り。

一万年の長きにわたり、世界を支配していたメルニボネ帝国は、新王国の隆盛とともに少しずつ衰退しつつあった。メルニボネに蔓延する退廃、冷淡さを嫌った最後の王であり、最高の魔術師であるエルリックは、臣民を変え、帝国を救おうと努力するが、いとこの裏切りや策略の結果、自ら帝国を滅ぼし、魔剣ストームブリンガーとともに世界をさまようこととなる。

という感じでしょうか。アリオッホ、キシオムバーグ、マベロードといった<秩序>と<混沌>の神々、それらの均衡をたもつ<天秤>、コルム、エレコーゼ、ホークムーンなどの永遠の戦士の概念や、後期の作品に重要になる多元宇宙など、エルリック(というかムアコックの諸作品)を特徴付ける世界設定は面白いけど説明が面倒くさいのでパス。読もう。読むとストームブリンガーとか例えばロードス島戦記とかに影響を与えているのがよくわかって面白い。

そして新版シリーズ三巻目「暁の女王マイシェラ」は、旧版4巻「暁の女王マイシェラ」と8巻「薔薇の復讐」の二本立てになってます。新シリーズで時系列が正しくなるように入れ替えられたから。話はずれるけど、前者に割と関係のある「オーベック伯 の夢(旧版三巻収録)」が未収録になっているんだけど、いつかされるのかなあ。「暁の女王マイシェラ」で微妙に言及されている以上、出した方がいいと思うんだけど。
とりあえず感想は別々に。
「暁の女王マイシェラ」は面白かった。昔読んだとおりというか、青春時代に一番印象に残っている作品だからというのもあるけど、やはり素晴らしさに偽りはない。エルリックの宿敵セレブ・カーナの笑ってしまうほどのしぶとさとか、エルリックの救われなさとかとても懐かしい。中学高校と熱中した世界が変わらずそこにあり、非常に嬉しい気分になった。
しかし「薔薇の復讐」に関して言えば、思い出分を足してもやはり今一だった。作者自身も言っているようにマイシェラでのエルリックが著者の投影であり、それがために非常にその感情や悩みに生々しさがあったように思われるが、薔薇では作者の興味が多元宇宙、<秩序>と<混沌>の闘争など、世界設定の方に完全に移っているようで、もはやキャラクターが話を展開させるための、まさに<運命>の駒のようになってしまっている。
なーんてことは正直どうでも良くて、読んでて話がさっぱり全然わからないのがすげえストレスだった。あれ、どうなってたっけと何度も前に戻って読む羽目に。話がコロコロ展開する割に、いまひとつ納得できないんだもの。特に多元宇宙関係
そんだけ!!
「真珠の砦」が配置換えされることで、昔読んだときよりずっと面白く楽しめたから、「薔薇の復讐」も同じように楽しめるかと思ったけど……。
というわけで、「夢盗人の娘」以下新三部作についても、多少の不安はあるものの、まあ今更期待するでもなし適当に待とう、と思うことにした。

ついでというか、エルリックが微妙にファンタジーから踏み出しているように思わせる、ちょっと面白い台詞。<混沌>の神、アリオッホの台詞。

「余は<混沌>。余はすべて。余は<非=線形>なるもの。自由運動粒子のあるじにして、エントロピーの最大の司祭。余は無より吹ききたる風。余は無限の可能性の王侯! (中略) 多元宇宙で唯一の正義とは――すべてが――神々すら――偶然発生し、偶然消滅にいたるということだ。(後略)」