2006年06月30日

ニート

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授業中の落書き。こういった方向性も、使えるパターンを増やして具象的なものと上手く組み合わせられるようにすれば、もうちょっと形にはなるのかなあとは思うんですが。

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今日朝起きて、すでに部屋が汚くなり始めていることに愕然としました。あれだけモノを捨てたのに……と思ったんですが、”あれだけ”捨てようが基本的にモノが多いんですよね。オタクだから。
オタクではない人の部屋とか本当にモノがなかったりして驚いたり、これなら片付いて良いなあと思ったりします。本なんか本棚にちょろっとあるだけだったりしますしね。家で何してるんだろうとか思ったり思わなかったりします。あんま家にいないのかな。テレビ見ているのかな。

というわけでさらにいくつか捨てた後、部屋の片付けをしました。
片付けてたら輪講用の資料を作るのが遅くなって、研究室に行くのがぎりぎりになったわけですが。そういえば最近ようやく理系らしくTexを使い始めました。楽なところは一太郎使うより楽なんですが、数式とかがよっぽどしんどいです。マジで。挫けそうになりました。Windowsで使える入力支援のある良いTexエディターないかなー。
と思った昨日の夜と今日の昼。
Meadowとか入れると幸せになれるのかなあと思ったりもします。面倒なので入れていない。のど元過ぎればなんとやら。

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最近というか卒論の時もそうだったんですが、僕はテスト勉強以外勉強をしたことがなく、これまでずっとそれだけで切り抜けてきたので、研究のために勉強しなきゃ、といわれるとはたと困ってしまったりなんなりする去年と今年です。去年は適当にごまかしつつ、漫画なんぞを書いていたわけですが、今年はさすがにそうも行かないだろうし。
と思いつつあまり関係ない本を読んでいるんですが。まあ、さすがにSFは少し自粛しようとは思います。そして整理法の本を読んだりする。研究関係ないや。

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しかし三千円のハードカバーとかをためらわずに買えるようになってしまっているので、たまった本がジャマー。文庫も新書も定型だから良いんですけど。いや、ハードカバーだって大体定型ですが、でかいんで。文庫もデュアル文庫とかダニエル・キイス文庫とかは今まさに殺意がわいた。

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「ニート」って言うな! を読んだー。昨今のニート言説に反対する本。三人の人間が分担して書いているんですが、全体の構成とかはあんまり考えてないので散漫な印象も覚えるんですが割と面白かった。基本的にはニート言説がおかしいという話なんですが、そういう世論が出来る土壌みたいなのにもある程度踏み込んでる内容です。というかそっちがメインなのかな。
定義に従うなら本来ニートはいろいろな人間がいるのだが、多くの人が抱くニート観ではそういう多様性を無視され、その中の一部である、ひきこもりやヤンキーといった本当に「働く意志のない」層がイコールニートのイメージになっている。ニートの数が増えていると言うが、本当に働く意欲がない人間は何十年前からほとんど変わっておらず、増えているのは主に働く意志はあるが求職活動を行っていないような人たち、例えば病気で退職したが、まだ職を探せる段階にないとか、一度は探したけど見つからなかったといった人たちである。それは本来雇用の問題なのだが、先述のようなニート観が幅をきかせているため、ニート問題は個人の心の問題に矮小化されてしまっている。そしてピント外れの支援策が行われてしまうようになっている。人間力とか脳的に挑戦されているような発言をする前に、雇用とかどうにかしろ馬鹿。
という感じなのが一人目。
ニート言説というのは、パラサイトシングル、ひきこもり問題などヒットしたマスコミ商品の系列につながるモノで、青少年ネガティブキャンペーンの一つの例に過ぎない。で、この青少年ネガティブキャンペーンというのは、青少年が凶暴化しているとか、青少年がなさけなくなっているとか(どっちやねん)、青少年がわけわかめ、とかそういう言説なんですが、メディアがそういう言説を支持する根拠としてあげているのは信用できるモノではない。例えば殺人やレイプの単位人口あたりの発生率はン十年前よりよっぽど下がっている。小学生女子が同級生の首切ったりしてるけど、んな事件昔もあったわけで、そういう特殊なケースを取り上げて一般化しているのが、「有識者」たち。他にもよく取り上げられるゲームとかの悪影響やその他のものも信じるに足る根拠はない。むしろそういったたいした根拠もない言い掛かりじみたものを使って、青少年が凶暴化している、軟弱になっているとか言っている人たちの精神状態の方があやしいんじゃねーの。それはつまりそういった人たちが様々な人の多様な生き方を受け入れられないからだ。ヤバッ。
という感じなのが二人目。
三人目は一人目二人目の内容を踏まえ、具体的な報道を詳細に取り上げながら、ニート報道が実際に問題あることを丁寧にのべ、ニートが本来の意味から外れ、イメージ先行の謎の使い方をされていることなどを示しつつ、もうちょっとどうにかしよう世みたいな事が書かれています。

という感じの本です。もうちょっと問題提起に徹しても良かったんじゃないかとも思うんですが、なかなか考えさせられる本でした。
ニートはアレですね。僕や僕の周りを振り返っても、もう完全にネタ用語になってますよね。やべーよニートになっちゃうよとかそんなノリ。本の中でも言及されていますが、ネットで言うなら、あの「働いたら負けかなと思っている」の男性の写真が強烈で。まあ、あの写真が本物だとしても、やらせなんでしょうけど。そうはいっても、あのネタ度の高さは強烈で、あれだけでニートイコール「働いたら負けかなと思っている」になっちゃったもんなあ。別にそれだけだったら良いのかもしれないけど、定義から出てくるニートの増加と、定義完全無視のイメージが関連づけられて語られるのは問題ですよね。だからニート問題が心の問題になるんでしょうが。
ゲームとかネットの悪影響とかはよく言われるけど、個人的にはテレビも十分怖いよなあと思う。テレビのリアリティが怖い。珊瑚礁落書き事件なんて誰でも知っているわけで、テレビが本当のことを映しているわけではない(というとアレですが、少なくとも作成者の意図は必ず入る)というのは誰でもわかっているんですが、それでもやはりテレビは映したモノを真実だと思わせてしまう力があるわけです。もちろん科学的手法で反証可能なモノであるなら、どうにかなることもあるんでしょうが、社会的、あるいは個人の精神的なモノとかは、放送されたことが一般に真実だと思われてしまう。というか無理矢理真実にしてしまう力がある。それを見ている人が必ずしも認識しながら見ているわけではない、というのが怖いなあと思います。もちろんネットだって同じような問題はあり、事実無根のことが検証されることなく真実だとして流通するなんて事はザラで、ネットがよりメジャーになれば、もっと問題になってくるんでしょうけど、それでも今はテレビの方が見てる人数と、その権威のために怖いなあと思います。本だってそうなんですが、映像の力は掛け値なしにすごい。
ゲームなんて、テレビ番組に比べればリアリティ全然ないからある意味では安全だと思いますけどね。とはいえMMOとかはかなりアレですし、どの方面から問題を見るかにもよるんでしょうが。
あと他にもいくつか思った。
ニート論というか、ネガティブ系青少年言説は少子化に一役買っているんじゃないかという妄想。いや、ほら親の責任を過大に求められると子供作るのためらうんじゃないのってはなし。
あと例示って怖いなあというか、「働いたら……」くんのように適切でない例の危険性は無限だ! もちろん適切な例を出せば効果的なのはわかりますが。当たり前ですが、気をつけないとなあ。
最後ですが、ニートを高齢者が非難するというのはまあ、良くないけどまあいいとして、僕もないわけではないので何ですが、若者が非難する場合が多い、というのはアレですね、気持ち悪いですね。非難というか完全に見下している構図が見える。自分は絶対ならないという自信からでる態度なんかな。そうなるとも思えない人が鬱とかになってニートに「転落」するなんてザラにあるんだろうけど。
うーん。まだない未来の足下を見て発言するのはできないでしょうが、なんだろう、難しいですね。ようわからない。まあ、発言力のない人間なんて好きに発言すれば良いんですけど。僕もそうしている。
イヤなら見なければいいし、基本的に見ないけど。
そういえば、ニートというと男のイメージがするんですけど何ででしょうね。
何ででしょうね。僕が男だからかなあ。

ああ、なんかこういうのを書くと馬鹿に見える。イヤだなあ。

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ついでなのでもう一冊。
忘れられた日本人を読みました。
昔の日本の農家についての民俗学の本らしいんですが、基本的には作者が歩き回って聞き取ったことをまとめた本でした。民俗学には全く興味がわかないのですが、こういう自分と全く違う環境にある人の話は面白いなあと思いました。というかたった百年余りで、ここまで変わったのかとも思いました。まあ、知らないだけで、農家は今でもこういう感じの所はあるのかもしれませんが。
たまにはこういう全く興味のない方面の本も読むのも良いなと思いました。

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漫画以外の絵はなるべく描かないようにしようと思ったり。

2006年06月26日

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上手く描けない。どうにもならんもんだ。

書いた内容を間違って消してしまった。
これは書くなという天の声だろう。
アップした内容は消すことは出来ても、取り消すことは出来ないのだから、アップしなくて良かったのかもしれない。
僕の無意識は僕より賢い。

放浪息子五巻
しんどい

キングゲイナー五巻
おもしろい

レポートを書こう。
書。ネタを十秒で考える。
コミュニケーション。
について妄想しよう。
テレビとか
ネットとか
携帯とか
いろんなメディアを見ていた
ひとそれぞれ好みはあるけど どれもみんな時間の無駄だね
これらはどれも無意味だなんて 悩むこともしないで
部屋の中口を開けて よだれを胸に垂らしている

それなのに君らはみんな どうしてこうも比べたがる?
どうせ全部ムダなのに それが一番だと云いたがる?

そうさ君らは 世界にいっぱいいる馬鹿の一人
みんなで同じモノを見る 周りと均一であることだけに

一生懸命になればいい

というレポート。すでに元ネタの原型をとどめてない。
さあ、かくかー。

2006年06月24日

23日の日記

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友人にコメント欄付けないの? っていわれたけど、付けません。掲示板も付けません。Web拍手も消しました。何か書きたいことがあれば、直接いうなりメールするなりすればいいし、するほどのことでもなければ書き込むなよ馬鹿、という話です。
僕は文字ベースのコミュニケーションに対してもの凄く否定的です。あ、事務連絡とかは別として。事務連絡については記録が残るので、メールとかの方がありがたい。一方、雑談系の文字ベースのコミュニケーションはほぼストレスで構成されているような気がします。
という趣旨の文章をこの前某SNSに載せました。SNSの魅力については正直全く理解できない。人と人の繋がりの可視化って怖いというか、ムラ的な人間関係のダメなところだけ取り出したような。気持ち悪い。

そういえば僕の代前後あたりをピークにHP保有率が下がっているような気が。持ってても公言してないだけかもしれないけど。
ブログとか?

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机を思いっきり殴ったらめちゃくちゃ痛くて2分ぐらい呻いていた。加減をミスったか、このくらいでも良かったのか。と思いつつ何回もやってしまう。

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片付けの目標は大体達成されつつある。捨てるべき物は大体分類したはず。後は適当な手段で処分すればいい。処分するのが面倒くさい物もあるけど。台所周りはまだちょっとある。まあしかしそろそろ次をどうするか考えないと。スペースに余裕が出来たところには適切な収納を。
次は掃除か。掃除もちゃんとしないといけない。でも、面倒くさいんだよなあ。片付けほど爽快感もないし……とかいっているとまた楽しくなるのかもしれないけど。だといいなあ。しかし掃除の方が片付けよりハウツーがしっかりありそうなので、先人の知恵を借りるのが適切と思われる。とりあえず普通の掃除機がほしい。

現在のほしい物リスト。
・空気清浄機
ほこりすい

・掃除機
ほこりすい
二つは置く場所を考えてから買おう

・ウォシュレット
コレがあるかないかで生活の質が段違いだ。余裕があれば。
ある。

・キャスター付きの引き出し
不注意で溶かしてしまったかわいそうな引き出しを使い続けていたけど、さすがにそろそろ変えたい。西友

・カラーボックス
余裕が出来た押し入れ下段の収納作り。西友

・文具などを整理する収納
何が良いのかまだわからない。超整理法の人のやり方を参考にするか。西友?

・ラックのような物。
とりあえず調べてから考える。

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心底むかつくというか不快な作品批評(といえるほどのものでもないけど)もあるんだなと思った。
僕も気をつけないと。

鬱陶しいものは鬱陶しい。
空気を読むということ。

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「暗号解読」を書いたサイモン・シンの処女作である「フェルマーの最終定理」を読む。
フェルマーの定理がいかにして生まれたか、そして生まれてからワイルズが証明するまでの三百年間の数学者の奮闘を、ピュタゴラスから数学の歴史とともに平易な数学の説明をまぜながら読者にわかりやすく、かつ刺激的な読み物に仕上げた科学読み物。

面白い。ずば抜けて面白い。サイエンスライターで彼に比肩できる人がいるのだろうか。といえるほどそのたぐいの物を読んでいるわけでもないが、ここまで読み物として面白いのはそうそうないのではないか。もしあったら万難を排して読むので、教えてほしいと思う。
彼はこの本で、漠然とだが数学は面白いものなのだろうということを読者に感じさせてしまうという恐ろしいことをやっている。難しい理論を平易に、説明できないものは、類似しているがより簡単なものを説明し、何となくイメージさせるという、伝えることの取捨選択が恐ろしく上手いのはももちろんあるが、それだけではここまで面白いものにはならないだろう。やはり、歴史を描き、人間をしっかり描いているからこそ、面白いのだと思う。数学者の喜びや悩み、あるいは野望など非常に生々しい人間ドラマを絡めて非常にドラマチックに書いている。この理論的説明と人間ドラマのバランス、構成の妙がこの本をここまで面白い物にしているのだと思う。

同じ作者の「ビッグバン宇宙論」が発売されたので即座にゲット。
しかし、これを読んだ直後にもう一冊読んでしまうという贅沢をして良いのだろうか。それはあまりにも勿体ない気がする。
少し寝かしておこう。

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アップルストア札幌店の記事を見ていたら、懐かしくなってしまった。
卒業までに一度は札幌に行こう。

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この前買った新書のデータマイニングの本はどうしようもなかった。一通り読んだけど、ほぼ時間の無駄……。多少は目を通してから買わないと金と時間の無駄だなあ。

2006年06月21日

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ハルヒの十二話すげえ。指の動きとかどうなってるんだ……。しかし、観客盛り上がるの早いなあー。
ハルヒが一曲目歌っている所を見て思ったけど、この非常にアニメ的なキャラクターデザインと、リアル志向の演技というか動きがぶつかるとこの表現って面白い。かみちゅ!の時も多少は思ったけど、かみちゅ! のキャラクターデザインは結構立体的だから、そこまでではなかった。ハルヒはいとうのいぢの絵をハイレベルで再現しているから、その辺非常にアンバランスなところがでていて……面白い。AIRの方は壮絶だったけど。ハルヒの方が大分こなれている感じはするなあ。

しかし、DVDを買ってしまいそうな自分がいる。いや、買っても全然問題ないんだけどさ……。何が良いのかさっぱりわからない作品だけど。いや、わかるんだけどさ。なんというか、
僕もアホだな。


だんだんと捨てるのが楽しくなりつつある。目的化しないように気をつけないとなあ。もうちょっと捨てることの位置づけを自分の中につくらないと。
あと今処分しているのってかなり定型的な物が多いけど、書類、プリントなどフロー的な物の管理方法もちゃんとしないとなあ、と超整理法を読んで思った。
あとはPC内のデータ管理か。とりあえずデスクトップ検索を導入かなあ。あとバックアップと、HDDの入れ替えとかを効率的にやる方法とかもそろそろ考えた方が良いのかな。あいているのあとSATA一つだし。

良いデスクトップ検索ないかなあ。MSNとかGoogleとかになっちゃうかなー。

2006年06月19日

捨てる片付け

捨てるのもまた創造である、という趣旨の某小説の一文を読んで、目の鱗が落ちました。これがアハッ体験だろうか。引き算は創作において非常に大事な要素なわけだし、言われてみれば当たり前なんだけど、ハッキリと指摘されないと漠然としたイメージがあるだけで、理解できていなかった。
部屋の片付けのどこに創造が有るのかと言われそうだけど、確かに創作でも芸術でもないけど、僕にとっては非常に重要な、生活を形作ることだと思います。机の上の汚い小説家が成功することは少ないみたいなことをクーンツも言っているわけだし、部屋のきれいさ、と生活の質あるいはその他の物は相関関係があるのではないかと思う。片付けること。捨てること。というか片付いた部屋にすむのは非常に気持ちが良いし、だからその状態をずっと保ちたいと思う。
とは言っても、出家した坊主でもあるまいし、物欲を完全否定することは出来ません。いきなりひよりかよとか思われそうだけど、現実問題考えると極論は長続きしない。そのため僕の心が長期にわたって許容できる範囲内で、捨てるために超えなければいけない心理的な閾値をどう下げていくかが問題になります。
つまり自分の物欲をハッキリと認識し、何を捨ててもソレが文句を言わないか、ということを明確に理解しなければならないんだと思います。実際の所ほとんどの物は捨ててもどうって事はないんだとは、思う。しかし思うのと実際に捨てられるかはまた別です。
こういった物を捨てることに対する心理的な障壁をどうにかしなければならないわけです。
例えば上のように実際には捨てても問題ないけど、何となく未練が残ってしまう場合は、そのものに対して準処分期間みたいなものを作ればいいのかなと思います。いま事実上そんな感じになってるし。つまり、個々におかれた物は将来処分する、といったゾーンをどこかに作って、とりあえず未練が残っている物をそこに置いておく。おいておくと、自然と未練も消えていきます。それでなお未練が消えない物はとりあえず残しておく。
という緩衝期間をおいて捨てると、割とすっきり捨てられるような気がします。
結局問題となるのは僕の心理的な躊躇、後悔の予感だけな訳で、ソレをどうやり過ごすか、と言う点でうまくいくやり方を見つければ良いんだろうな。緩衝期間なんてのはその一つのやり方なわけです。
しかし、なんで人一人生きていくだけで、これだけ物がたまってくんでしょうね。発狂しそうですよ。立って半畳寝て一畳、とまでは言いませんが、もっとシンプルに生きられないモノかと思います。
昔モノを大切にしたのは、モノが貴重だったからで、モノが過剰な今は、モノを大切にする技術ではなく、モノを捨てる技術が大切! ということなんだろうなあ。

そりゃ持続可能な社会とかそういう話をすれば、こういう考え方は適切ではないと思いますよ。でも個人レベルで考えるとそうなんですよね。情報と同じ。いかに本質的なモノだけを残すか。情報ならぬ、物フィルタリング。語呂の悪いことで。しかしまあ、情報と違って爆発していないのが幸いではあります。


って色々捨てることに腐心しているけど、捨てなくったって本当は片付いた部屋を持続させるのなんか簡単なんですよね。持っている全ての物に有るべき場所を設定して、常にそこに有るようにする。だしたら、しまう。それだけ。
簡単じゃないね。
ここで問題になるのは当然、全ての物にあるべき場所を設定する、という所な訳です。適切な設定を行わなければ、この部屋を使っている人間が怠惰である以上、たとえ最初は片付いたとしても、しまうのが面倒くさくなる、適当にしまってしまう、等という行動が積み重なることで、結局は最初と変わらないぐらい汚くなってしまいます。出してしまうのが容易、という部屋を作るためには、物を使う頻度などを考えなければならないのですが、それにまして余裕というのが大事になるんだと思います。余裕というのは、すなわち存在する収納スペースから持っている物がしめる割合を引いた物です。コレが低すぎると、たとえ最初は鮮やかに片付いたとしても、余裕が内分出し入れが面倒くさくなり、かつ新しい物が増えたときに余裕がないため、適切にしまうことが困難になります。
というわけで、コレを解決するためには、収納スペースを増やすか、物を減らすか、というのが大事になります。もちろん前者も大切です。デッドスペースをなくし、いかに要領よく収納スペースを確保するかというのは、片付けにおいて最も重要な要素の一つでしょう。しかし、部屋の大きさが一定である以上、収納スペースを増やすことには限界があります。また、本棚を増やすなどして収納スペースを増やすのは有効ではありますが、一方で部屋の空間を狭くすることで心理的な圧迫が増えることにもなります。ただ単に増やせばいいという物でもないわけです。
というわけで結局一番適切な解決方法は物を減らす、増やさない。という事になるんだと思います。物の種類に応じた適切な整理方法というのももちろんもの凄く重要だと思います。整理法の本を買うなり、収納上手の人の話を聞くなりして、そういうノウハウもためないといけないんだろうなあと思います。
ただ、それも物を捨てるという原則の下で考えることなんだと、思います。物が多ければどんな収納上手も片付けることは出来ません。
というわけで僕は捨てるために必要な心理障壁迂回技術をダラダラと考え続けているわけです。
合い言葉は、もったいなくない! 
もったいなくなるような物は手に入れない!

2006年06月18日

日記

ワールドカップについてこの前ちょろっと書きましたが、ワールドカップを楽しんでないことで人非人扱いでもされたのならともかく、そうでもないなら人が楽しんでいるのにケチつけるなよと言われました。しかし、みんなが疑うことなく楽しんでいるのを見ると、君たちが楽しんでいるのは僕が楽しんでいるモノと同じぐらい下らないモノなんだと、言いたくなるのは僕だけではないでしょう。別に水をかけているわけでも有りません。
まあ、ココを読んでいる人で真っ当にワールドカップなんぞを楽しんでいる人はいないという、僕の思いこみもありますが。
あと楽しいから。

家に帰って、せっせこ片付けしていました。部屋が耐えられないぐらい汚い。僕の部屋の状態の平均をとると割と汚いため、僕が部屋が汚い状態に対して強い耐性があると思われがちな気もしますが、その実汚い部屋はホント嫌いです。汚い部屋に対するストレスと、部屋を片付けるストレスを考えたとき、後者が勝っている場合が多いだけです。
本当は部屋をきれいにしたいといつも思っています。
しかし持続可能な片付いた部屋を作り出すためには、一時の片付けでは意味がありません。そういうシステムを部屋と僕の中に作らなければ、きれいにしてもすぐに汚くなってしまいます。
というわけで先ず第一に、いらないモノは捨てる。という大原則を作らないといけないなと思います。とにかく捨てる。迷ったら捨てる。
モノを捨てるかどうか悩むときは結構ありますが、そのときだいたい捨てる理由を考え、結果残しておく場合がほとんどです。しかし持続可能な片付いた部屋という目的を考えると、むしろ捨てない理由を考え、それがないときに捨てるという考え方にした方が良いのではないかと思い始めています。なかなか徹底は出来ないと思いますが。
とりあえず「もったいない」とかそういう概念には背を向けること。地球環境を守るためには個々の努力が必要とか言いますが、怠惰な人間を想定していない大規模なシステムが成功しかつ持続する状況は考えられないので、気にしない気にしない。
あとはいらないモノは家に持ち込まない、か。といいつつ本が結構増えている最近ではあります。その分処分していけば良いんですけどね。
SFも面白くなかったモノは処分してくべきなんだろうなあ……。
とにかくコレクター要素の強い物、特にその中でもかさばる物、管理が面倒くさい物には絶対手を出さないというのが大事だなあ。オタクとしては。
倉庫の一つでもあれば、どんどんつっこんでいけば良いんだけど。某オタキングは部屋が四十畳ぐらいあったとか。たしか。しかし僕のように六畳の部屋が全てとしては、QoLを維持するためにはそんな贅沢は言っていられません。
なかなかどうしたもんでしょうね。しっかし部屋の片付けというのはオタクにとって非常にプライオリティの高い問題だと思うんですが、みんなどうしているんだろうと思います。どうもなってない場合のほうが多いとは思いますが……
どうしてるの?

2006年06月16日

ハルヒについて

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まえからお前の絵は萌えない萌えない萌えない萌えない萌えない萌えない萌えない萌えない萌えない萌えない萌えない萌えない萌えない萌えない萌えない萌えない萌えない萌えない萌えない萌えないとあらゆる人から言われ続けているけどホントにダメだな。あ、長門ね。一応。
まあしかしわかってても言われ続けている僕の何とも言えない気持ちをわかってほしいとも思います。

昨日のバイトがやたらとしんどくて、今日朝起きてもヘロヘロで、ああでも学生ミーティングにいかなと研究室に行ったら、今日は三時からだったことを忘れていたことに気がついたので、ぐったりしながらだらだら論文読んでいたりしたあとに、研究室の人と飯を食っていたら、このブログを知っていることを伝えられ、かつその文脈から研究室の他の人も見ている可能性の高いことを言われ、ちょっと仰け反った。
いやまあ、別に見られて困ることは書かないようにはしているし、いいんですが、基本的にオタク傾向の強い人間に対して書いているし読まれるのはそれはそれで恥ずかしいと思った時点で気がついた。
別に普通の人は、僕のしんどいオタク文章を読みはしないんですよね。というか普通の人じゃなくても誰も読んでいない可能性も高い。
本にしろ漫画にしろ映画にしろコンテンツに対する感想は、興味を持つ人以外は読まないんですよね。悪いけどSFの感想は読んでいないよとか言われたこともあるけど、興味ないのに、僕の知っていることを前提とした感想を読むなんてのは時間のムダなんでそれは限りなく正解に近いと思います。ちなみに正解はこんなブログを読まないことです。時間の無駄。
まーそんなわけで全然気にせずいつも通り行くわけですが、早速ハルヒの話でも。

というわけで涼宮ハルヒについて、感想やら何やら。
あんまり肯定的な意見ではないので、書く前に僕の問題点を踏まえていただけるとありがたいです。一番の問題点としては僕は基本的にジャンルSFしか読まないので、かなり読み手として偏っています。ジャンルSFでは小説としてのバランスの良さよりむしろ欠点が多くても、センスオブワンダーなどといった点で突き抜けている作品が好まれる傾向にあり、かつまた僕も御多分に漏れません。それはジャンルSFを多くの人から遠ざけている原因であり、逆にはまってしまう原因でもあると思います。もちろん多くの読んでも面白いような、夏の扉のような作品も色々ありますが、一方でジャンルSF読みからはSFとしては……とか批評されたりもするわけです。
要は、僕の視点はあまり一般的ではない、特にSF的要素のある作品に対しては、と今更なことを言って、逃げをうっておきます。まあ、読んでいる冊数から言えばSFファンというのもアレで、SFという視点から見るととか語るのも何なんですが、まあSF好きぐらいはいえるのかなと、その程度なのですが。

本題。
まず、SFとしてハルヒを見た場合、僕はこれを全く評価しません。SFのおもしろさとは、とか言い出すとそれだけで本が一冊書けてしまうようなので、踏み込むつもりはないのですが、僕はハルヒにはSFを読むときに感じるどういった面白さも感じられませんでした。
まずハルヒがSFと見なされる理由としてはその設定によるモノだと思います。つまり長門有希の情報統合思念体、朝比奈みくるの時間平面がなんたら、古泉なんとかの超能力とかまあこの三つなんですが、これらの設定は何ら面白さに貢献していないばかりか、むしろ読むときにイライラさせられます。
で、何でだろうと思ってボーッと考えていたのですが、とりあえずの結論。
長門と古泉の設定はありがちな宇宙人、超能力者からはズレています。朝比奈みくるについては未来人は未来人だけど、その時間に関する説明はやはり、そんなに見ないモノです。まあ、時間関係のSFではそれこそありとあらゆる理論が出てくるので何ともいえませんが。
つまりハルヒではSF的設定は元ネタは有るとしても、一般的なイメージからはある程度ずらしてきているといえます。もちろんSFでは目新しい設定というのは歓迎すべきだとは思うのですが、もちろんそれは読んで受け入れられる場合に限ります。奇をてらって、てらっただけの設定ではむしろありがちな設定よりひどい結果になります。
ありがちな設定は読んで新鮮みがない代わりに、読む人が設定を受け入れる努力が少ない分話に集中できるという利点があると思います。ジャンルSFで有ることが必須ではない作品でそういった利点を捨てて目新しい設定を導入しようとするなら、それによって何か大きな利点がなければいけないと思います。
しかし、ハルヒでは長門にしろ朝比奈にしろ古泉にしろ、その目新しい設定は何ら作品の面白さに寄与していません。むしろ読む上での障害となっています。その原因の一つとしてそれは設定の作り込みがもの凄く甘いということだと思います。例えば長門は宇宙人です(アンドロイドとかいった方が適切な気もするけど)。しかもただの宇宙人ではなく、情報統合思念体の対有機生命体コンタクト用ヒューマノイド・インターフェイスだという。作品中では長門は周囲の「環境情報」を操作する事で割と何でも出来てしまう。そうですか。で、環境情報って? 情報としてだけ存在するものって何? 全宇宙に広がる情報系? 情報フレア? そもそもこの作品で情報をどう捉えているのかさっぱりわからない。何となくそれっぽいことを言っているだけとしか僕には思えません。ミステリックサインの時の情報生命の説明もそうだけど。
時間平面の説明はたぶん飛ぶ矢のパラドックスとかその辺からきているんだと思うんだけど、その概念を提案することで、何か作品中の設定に対する理解が深まるのかというと、全くそんなことはなく、朝比奈の言葉は宙ぶらりんに浮いている感じがします。次元断層とかも。
つまり新規のアイデアを出しているように見えながら、その実わかりにくい言葉をちりばめることで読者を煙に巻こうとしているようにしか思えない、ということです。

もう一つは、そういった設定が作品中の本筋に何ら関わっているように思えないと言うことです。すでにイメージの確立されたアイデアを採用することなく、わざわざわかりにくい設定をわかりにくく提示しているからには、それは本筋に関わってくるべきだと思うのですが、あまりそうは思えません。長門も朝比奈ももっとわかりやすい設定で全く同じはなしを展開できたと思います。古泉は比較的本筋と関わっているように思えますが(憂鬱の時点では)、それでもやはり無駄な枝葉末節が多々あります。
これら三人の設定の大部分は、この作品でもっとも大事なハルヒの超常的な能力には、ハッキリ言って関わっていません。その上で読ませる魅力的な設定でも有りません。
もしコレが多少作り込みの甘い設定でも、本筋にしっかり関わってくるなら、特に読んで引っかかるすることも、いや有ったとしても読み終わった時点で納得していたと思います。
という理由で気持ちよく走っていたら、小石に蹴躓いたような気分になるのかと思います。

ただ、ハルヒシリーズが完結していない以上、上の2点は的外れである可能性は多々あります。例えばもしハルヒが望んだことで、三人が(というか三人の特殊な設定が)生まれたとするなら、三人の設定が作り込まれていないことは、むしろハルヒの能力を支持する設定となり得ます。つまりハルヒが考えた設定だから、宇宙人、未来人、超能力者もいい加減な設定だといえるからです。4巻の内容を考えると、これも十二分にあり得ると思います。
一方で三人の設定がそれぞれ一般的なイメージから外れていることは、ハルヒによって三人が生まれた可能性を下げているように思います。
まあ、コレは最終刊まで読んでみないとわからないし、最終刊読んでもわからないような終わり方になる可能性も高いとも思います。
だいたい以上です。

というわけで色々けなしているように見えるので、ハルヒが嫌いかというと、そういうこともなく、わりと好きですよ。ただ、ハルヒは何というか、読んでて何ともいえなくなるんですよねー。面白いかと言われれば、そうともいえず、面白くないかと言われれば、そこまで面白くないわけでもなく。
プロットの何とも言えなさも加え、キャラクターの魅力だけで読ませているのかなあとも思ってしまう。
ハルヒについては色々考えているので、また書くかも。

2006年06月14日

七時ぐらいに疲れて布団にぐったりしていたら案の定寝てしまって起きたらびっくりぐったり。ダルー。
今僕はあきれるほどモノを捨てたい。
モノを捨てる。
処分したい。
そのような動機をもって本を売りに行ったら、千円ぐらいだった。
まんだらけだったら23倍になったんじゃないかとも思うが、めんどくさいので。めんどくさいのでその辺の古本屋で売った。
でも千円は安い気がする。
でもめんどくさかった。
捨てれば良かった。
明日はいらんパーツを売ろう。

キングコングを見た。面白かった。
多少冗長なシーンが多くて怠かったけど、非常に良くできたエンターテイメント映画だったと思う。
髑髏島の造形は見事だけど、キングコングなど動物の造形が微妙に不気味の谷から抜けきっていないような感じもする。これだけ予算をかけてもまだ違和感はぬぐえないのかなあ。ロードオブザリングもそうだったけど。アニマトロニクスのほうがリアルに出来たんだろうけど、ああいった派手なアクションは撮れないんだろうからなあ。
元の作品や、前のリメイクを見てから見るとまた別の感想が浮かぶ気もする。

ハイペリオンの没落読了。
エンディミオンの覚醒を読み終えて、もっかいハイペリオン二部作を読みたくなったので買って読み返しました。
改めて思うけど、凄いなあ。凄すぎる。なんだろうね、コレ。
前読んだときは没落よりハイペリオンのほうが印象に残ったけど、今回は没落の方が圧倒的に面白かった。というか前のときは凄い雑な読み方をしてたからなあ。ディテールに押し流されてしまっていた気もする。
また、何年かして色々SF読んでから読み返すと別の読み方が出来るような気もする。つってもシリーズあわせると文庫で十八センチあるのを気軽に読み返す気にはなれませんが。

どうでもいいけどついでにハルヒの話。
ハルヒのSF部分がなんつーか、微妙な気分を味あわせてくれる点について色々考えてたんですがハイペリオンを読んでちょっとわかった気がした。
僕はハードSF専門というわけでもないので、科学考証がいい加減だ! とか言うつもりもないんですが、いやまあさすがに情報統合思念体がSQLでやりとりしているのは正直どうかとも思いましたが、それはともかく、意外と設定にいい加減なところもあるハイペリオンみたいなのはOKでハルヒが今一なのは何故か。
そもそも向いている方向が全然違う小説なんだし、比べるのも何ですが、一応SF部分を比べてということです。
をそのうち書くかもしれないし、書かないかも。
なんか一瞬で面倒くさくなった。

ハルヒ面白いと思いますよ。ただなんか読んでて、引っかかるんですよ。気持ちよく走っていたら足下の石に蹴躓いたみたいな。
それはどうも僕が厨なだけという気もするんですが。それ以外の理由もあるはずだ!!

2006年06月13日

ワールドカップ開幕!!!!!

いやワールドカップ始まりましたねー!
しかも今日は日本戦。こういうときだけはテレビがないことが本当に悔しいですね!
ああ、今頃みんなサッカー見て熱狂しているんだなと考えるとこん畜生! っておもっちゃいますよ。ホント。

んなわけもなく、心底どうでもいい。いや、僕もフツーの人たち相手には↑みたいなこと言いますけどね。なんか興味ないというのが言いづらいので。
実際の話、どうやればどのあたりに興味が持てるのかというのがさっぱりわからない。いや、多少興味あったとしてもさ、それ以前にテレビ見ながらこれに何十万人もの人が熱狂しているんだなあと考えるとか引きませんか。一瞬でさめますよ。気持ち悪い。
別にこの熱狂的なニッポンコールから戦前のファシズムと同じ雰囲気を感じたりはしないのですが、何でしょうね。まあ、考え方問題なんですが。
いやほら、オタクというのはいらんところで優越感を感じる生ものじゃないですか。ここでオタクと一般化しているのはほら、オタク語りは自分語りにしかならないと言う伝統をふまえているわけですが、それはともかく。
つまりいわれのない誹謗中傷を受け、嘲笑を浴びる僕のようなオタクとしては、おまえらそんな馬鹿にするけど、僕はおまえらより××については秀でているんだぞ! みたいな? まあ××というのは世間一般において全くと言っていいほど意味のない能力/知識/モノである事が多いのですが、そういう何か一つでも、そしてちょっとでも相手より秀でている所を見つけて、身につけて、心の奥深くで密やかな優越感に浸るのが、オタクの醍醐味というモノなのではないかと思います。
というわけで人と同じ事をしていては、そういうイヤらしい優越感を得るのは非常に困難なわけです。全うに競合する人間の多い分野で人より秀でる人間もいますが、そんなやつぁ放っておこう。人種が違う。僕はレイシストです。
つまり人と同じ事を、それも非常に多くの人と同じ事をするのに、脊髄反射的な拒否感を持つのがオタクというモノなのです。人々がワールドカップにあるいはオリンピックなどに熱狂し、体験の共有、共感という非常に真っ当な人間的楽しみに興じているそのときに、それに積極的に背を向け、人には理解/共感しがたい趣味。あるいは共有できない知識を身につける、
それにこそ楽しみを見つけようと思う(実現できているかはさておき)僕のオタクとしての人間的ダメさが、ワールドカップという一大イベントに楽しみを見いだすことを拒否してしまう。という。

以下詳しく。
人と時間、空間、感情、体験を共有するというのは、非常に人としてプリミティブな喜びであると思います。しかし、もしそれを求めるというのなら、オタクになるべきではないと思うのです。
オタクというのは昔のようにそれだけで犯罪者予備軍扱いされる状況とは比べるべくはないとしても、今もってなお嘲笑の対象であり、それゆえ時間、空間、感情、体験、等の共有などから楽しみ、喜び、を得たいと思うなら、より一般に受け入れられる趣味、を持つ方が容易である。と考えます。
それをふまえた上で、なお、オタクであろうとするなら、オタクは共有、共感とは違うところから得られる喜び、共有、共感を否定することによって生まれる感情。自分が持っているモノを相手が持っていないことに起因する感情。
優越感をもって喜びとするべきではないか。
と、そう思います。もちろんその優越感は外に出すべきではない、心の奥底でそっとしまって、馬鹿にされ涙がほろりと一粒あふれたときにでも、一人部屋の中で愛でるようなモノであるべきですが。

だから僕は例えばこの前ネット上で話題になった涼宮ハルヒの憂鬱のEDテーマをオリコン一位にしようという、いわゆる「祭り」が好きにはなれませんでした。「ハッピー☆マテリアル」もそうでしたが、それではダメなのです。どうしようもなく。
「大儀がある」と頭脳的に問題を抱えているということが論理的に推測されえる発言からも見て取れるように、J−POPを敵として団結して、戦うのも非常に楽しいのはわかります。しかし、だけども、それは、祭りの楽しさは、ネット的ではあるとはいえ、どうしようもなくオタクの楽しみではない、というより楽しみであるべきではないのです。
もし、自分がオタクであることを是とし、その趣味が自分の一部であると認めたなら、どうしてそういう楽しみを求めるのか。人と何かを共有することを楽しむのなら、それにふさわしく、人に嗤われる事のない趣味はいくらでもあります。
驚くことに、世の中には人に言うと感心される趣味が結構多いのです。音楽系なり、運動系なり、僕らは趣味をいって嗤われる事しかないので、なかなか気づきづらいのですが、世の中の趣味は意外と褒められるモノなのです。もし、共有を求めるのであれば、ピアノでも弾けばいい、体を動かせばいい。しかしそういう高尚な趣味から背を向け、どうしようもない趣味で大事な人生の、大事な時間を棒に振るのなら、どうしてどうしようもない趣味を持つもの同士で傷の舐めあいのようなしょうもない、共有、共感体験を求めるのか。
たかだか千円払って、「祭り」に参加した気分になって、その浅薄な喜びを、低俗な趣味を持つモノたちの下らないルサンチマンから生まれる喜びを持って、それでは、一般人のオタク以外の人の喜びの劣化コピーではないですか。
僕は言いたい。あなたはオタクではない。漫画を捨て、アニメを捨て、ラノベを捨て、ゲームを捨て、そして街に出ればいい。真っ当な趣味を、楽しみを、喜びを求め、一般人
になればいい。そのほうが、よっぽど幸せになれるのではないかと。
それでもなおオタクであるなら、なぜ、そこから背を向けないのか。まっとうな共有、共感という楽な道を捨てたのなら、人と人のつながりから得られる楽しさは優越感しかないんですよ。全く価値のない知識、技能、のちょっとした差に優越感を感じるようなそういう人間のクズとしての道を選ぶか、それとも一般人になるかという選択肢をオタクは選ばなければいけないんですよ。

クズならクズらしく、共感、共有という真っ当な人間が得るべき喜びをもとめて見苦しくあがくよりは、その道を自覚を持ち、立派なクズになるべきであると僕は思います。だから僕は、ネットで、例えば2ちゃんねるのVIP板で見られるような、朝目で見られるような、ああいったオタクコンテンツの共有的共感的楽しみ方をヨシとする気にはなれない。あれでは、あまりにも、安易すぎる。
人が楽しまない作品を楽しみ、人が理解できない解釈、楽しみ方をするような、そういった方向へこそ、オタクは深化していくべきではないかと、僕はそう思います。
以上。

追記
全体半分ぐらいは本気ですが、後の半分は筆走ってしまいました。普段の僕の言動と照らし合わせて、ああまた巽は馬鹿なことをいっているなあと嗤えばいいんじゃねーの。
いや、一年とかも見ているようなので、一応。
あ、日本負けたんだ。

2006年06月04日

合い言葉はグロテスク

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というわけでどこぞで話題のデトロイト・メタル・シティのクラウザー�鏡い任后2燭�面白いって、DMCファンの頭の緩さなんですが。あと公然猥褻カット。

ナツノクモ6巻。
クロエさんとメリノーの魅力にあふれる巻だった。

凹村戦争。
やばい。
読めない。

モノを減らして部屋をすっきりさせて、片付けやすい部屋を構成するためにモノを減らしたい。モノを減らすためには、モノに対する執着を捨てなければならないのだけれど、どうもオタクは、という一般化はどうかとも思うけど、少なくとも僕はモノに対する執着が割とあるので、なかなか減らない。
部屋を片付けるためには、収納スペースを増やすかモノを減らすかしなければならないが、だからといって本棚を増やせば片付くとはいえそれはそれで圧迫感が出てしまう。であるならやはり、不要なモノを捨てるしかないのだが。
とりあえず、本を積極的に処分するのは前提なんだけど、SFはつまらないと思っているのでも処分できないんだよなあ。
どうしたもんでしょうね。