ハルヒについて
まえからお前の絵は萌えない萌えない萌えない萌えない萌えない萌えない萌えない萌えない萌えない萌えない萌えない萌えない萌えない萌えない萌えない萌えない萌えない萌えない萌えない萌えないとあらゆる人から言われ続けているけどホントにダメだな。あ、長門ね。一応。
まあしかしわかってても言われ続けている僕の何とも言えない気持ちをわかってほしいとも思います。
昨日のバイトがやたらとしんどくて、今日朝起きてもヘロヘロで、ああでも学生ミーティングにいかなと研究室に行ったら、今日は三時からだったことを忘れていたことに気がついたので、ぐったりしながらだらだら論文読んでいたりしたあとに、研究室の人と飯を食っていたら、このブログを知っていることを伝えられ、かつその文脈から研究室の他の人も見ている可能性の高いことを言われ、ちょっと仰け反った。
いやまあ、別に見られて困ることは書かないようにはしているし、いいんですが、基本的にオタク傾向の強い人間に対して書いているし読まれるのはそれはそれで恥ずかしいと思った時点で気がついた。
別に普通の人は、僕のしんどいオタク文章を読みはしないんですよね。というか普通の人じゃなくても誰も読んでいない可能性も高い。
本にしろ漫画にしろ映画にしろコンテンツに対する感想は、興味を持つ人以外は読まないんですよね。悪いけどSFの感想は読んでいないよとか言われたこともあるけど、興味ないのに、僕の知っていることを前提とした感想を読むなんてのは時間のムダなんでそれは限りなく正解に近いと思います。ちなみに正解はこんなブログを読まないことです。時間の無駄。
まーそんなわけで全然気にせずいつも通り行くわけですが、早速ハルヒの話でも。
というわけで涼宮ハルヒについて、感想やら何やら。
あんまり肯定的な意見ではないので、書く前に僕の問題点を踏まえていただけるとありがたいです。一番の問題点としては僕は基本的にジャンルSFしか読まないので、かなり読み手として偏っています。ジャンルSFでは小説としてのバランスの良さよりむしろ欠点が多くても、センスオブワンダーなどといった点で突き抜けている作品が好まれる傾向にあり、かつまた僕も御多分に漏れません。それはジャンルSFを多くの人から遠ざけている原因であり、逆にはまってしまう原因でもあると思います。もちろん多くの読んでも面白いような、夏の扉のような作品も色々ありますが、一方でジャンルSF読みからはSFとしては……とか批評されたりもするわけです。
要は、僕の視点はあまり一般的ではない、特にSF的要素のある作品に対しては、と今更なことを言って、逃げをうっておきます。まあ、読んでいる冊数から言えばSFファンというのもアレで、SFという視点から見るととか語るのも何なんですが、まあSF好きぐらいはいえるのかなと、その程度なのですが。
本題。
まず、SFとしてハルヒを見た場合、僕はこれを全く評価しません。SFのおもしろさとは、とか言い出すとそれだけで本が一冊書けてしまうようなので、踏み込むつもりはないのですが、僕はハルヒにはSFを読むときに感じるどういった面白さも感じられませんでした。
まずハルヒがSFと見なされる理由としてはその設定によるモノだと思います。つまり長門有希の情報統合思念体、朝比奈みくるの時間平面がなんたら、古泉なんとかの超能力とかまあこの三つなんですが、これらの設定は何ら面白さに貢献していないばかりか、むしろ読むときにイライラさせられます。
で、何でだろうと思ってボーッと考えていたのですが、とりあえずの結論。
長門と古泉の設定はありがちな宇宙人、超能力者からはズレています。朝比奈みくるについては未来人は未来人だけど、その時間に関する説明はやはり、そんなに見ないモノです。まあ、時間関係のSFではそれこそありとあらゆる理論が出てくるので何ともいえませんが。
つまりハルヒではSF的設定は元ネタは有るとしても、一般的なイメージからはある程度ずらしてきているといえます。もちろんSFでは目新しい設定というのは歓迎すべきだとは思うのですが、もちろんそれは読んで受け入れられる場合に限ります。奇をてらって、てらっただけの設定ではむしろありがちな設定よりひどい結果になります。
ありがちな設定は読んで新鮮みがない代わりに、読む人が設定を受け入れる努力が少ない分話に集中できるという利点があると思います。ジャンルSFで有ることが必須ではない作品でそういった利点を捨てて目新しい設定を導入しようとするなら、それによって何か大きな利点がなければいけないと思います。
しかし、ハルヒでは長門にしろ朝比奈にしろ古泉にしろ、その目新しい設定は何ら作品の面白さに寄与していません。むしろ読む上での障害となっています。その原因の一つとしてそれは設定の作り込みがもの凄く甘いということだと思います。例えば長門は宇宙人です(アンドロイドとかいった方が適切な気もするけど)。しかもただの宇宙人ではなく、情報統合思念体の対有機生命体コンタクト用ヒューマノイド・インターフェイスだという。作品中では長門は周囲の「環境情報」を操作する事で割と何でも出来てしまう。そうですか。で、環境情報って? 情報としてだけ存在するものって何? 全宇宙に広がる情報系? 情報フレア? そもそもこの作品で情報をどう捉えているのかさっぱりわからない。何となくそれっぽいことを言っているだけとしか僕には思えません。ミステリックサインの時の情報生命の説明もそうだけど。
時間平面の説明はたぶん飛ぶ矢のパラドックスとかその辺からきているんだと思うんだけど、その概念を提案することで、何か作品中の設定に対する理解が深まるのかというと、全くそんなことはなく、朝比奈の言葉は宙ぶらりんに浮いている感じがします。次元断層とかも。
つまり新規のアイデアを出しているように見えながら、その実わかりにくい言葉をちりばめることで読者を煙に巻こうとしているようにしか思えない、ということです。
もう一つは、そういった設定が作品中の本筋に何ら関わっているように思えないと言うことです。すでにイメージの確立されたアイデアを採用することなく、わざわざわかりにくい設定をわかりにくく提示しているからには、それは本筋に関わってくるべきだと思うのですが、あまりそうは思えません。長門も朝比奈ももっとわかりやすい設定で全く同じはなしを展開できたと思います。古泉は比較的本筋と関わっているように思えますが(憂鬱の時点では)、それでもやはり無駄な枝葉末節が多々あります。
これら三人の設定の大部分は、この作品でもっとも大事なハルヒの超常的な能力には、ハッキリ言って関わっていません。その上で読ませる魅力的な設定でも有りません。
もしコレが多少作り込みの甘い設定でも、本筋にしっかり関わってくるなら、特に読んで引っかかるすることも、いや有ったとしても読み終わった時点で納得していたと思います。
という理由で気持ちよく走っていたら、小石に蹴躓いたような気分になるのかと思います。
ただ、ハルヒシリーズが完結していない以上、上の2点は的外れである可能性は多々あります。例えばもしハルヒが望んだことで、三人が(というか三人の特殊な設定が)生まれたとするなら、三人の設定が作り込まれていないことは、むしろハルヒの能力を支持する設定となり得ます。つまりハルヒが考えた設定だから、宇宙人、未来人、超能力者もいい加減な設定だといえるからです。4巻の内容を考えると、これも十二分にあり得ると思います。
一方で三人の設定がそれぞれ一般的なイメージから外れていることは、ハルヒによって三人が生まれた可能性を下げているように思います。
まあ、コレは最終刊まで読んでみないとわからないし、最終刊読んでもわからないような終わり方になる可能性も高いとも思います。
だいたい以上です。
というわけで色々けなしているように見えるので、ハルヒが嫌いかというと、そういうこともなく、わりと好きですよ。ただ、ハルヒは何というか、読んでて何ともいえなくなるんですよねー。面白いかと言われれば、そうともいえず、面白くないかと言われれば、そこまで面白くないわけでもなく。
プロットの何とも言えなさも加え、キャラクターの魅力だけで読ませているのかなあとも思ってしまう。
ハルヒについては色々考えているので、また書くかも。