2006年06月13日

ワールドカップ開幕!!!!!

いやワールドカップ始まりましたねー!
しかも今日は日本戦。こういうときだけはテレビがないことが本当に悔しいですね!
ああ、今頃みんなサッカー見て熱狂しているんだなと考えるとこん畜生! っておもっちゃいますよ。ホント。

んなわけもなく、心底どうでもいい。いや、僕もフツーの人たち相手には↑みたいなこと言いますけどね。なんか興味ないというのが言いづらいので。
実際の話、どうやればどのあたりに興味が持てるのかというのがさっぱりわからない。いや、多少興味あったとしてもさ、それ以前にテレビ見ながらこれに何十万人もの人が熱狂しているんだなあと考えるとか引きませんか。一瞬でさめますよ。気持ち悪い。
別にこの熱狂的なニッポンコールから戦前のファシズムと同じ雰囲気を感じたりはしないのですが、何でしょうね。まあ、考え方問題なんですが。
いやほら、オタクというのはいらんところで優越感を感じる生ものじゃないですか。ここでオタクと一般化しているのはほら、オタク語りは自分語りにしかならないと言う伝統をふまえているわけですが、それはともかく。
つまりいわれのない誹謗中傷を受け、嘲笑を浴びる僕のようなオタクとしては、おまえらそんな馬鹿にするけど、僕はおまえらより××については秀でているんだぞ! みたいな? まあ××というのは世間一般において全くと言っていいほど意味のない能力/知識/モノである事が多いのですが、そういう何か一つでも、そしてちょっとでも相手より秀でている所を見つけて、身につけて、心の奥深くで密やかな優越感に浸るのが、オタクの醍醐味というモノなのではないかと思います。
というわけで人と同じ事をしていては、そういうイヤらしい優越感を得るのは非常に困難なわけです。全うに競合する人間の多い分野で人より秀でる人間もいますが、そんなやつぁ放っておこう。人種が違う。僕はレイシストです。
つまり人と同じ事を、それも非常に多くの人と同じ事をするのに、脊髄反射的な拒否感を持つのがオタクというモノなのです。人々がワールドカップにあるいはオリンピックなどに熱狂し、体験の共有、共感という非常に真っ当な人間的楽しみに興じているそのときに、それに積極的に背を向け、人には理解/共感しがたい趣味。あるいは共有できない知識を身につける、
それにこそ楽しみを見つけようと思う(実現できているかはさておき)僕のオタクとしての人間的ダメさが、ワールドカップという一大イベントに楽しみを見いだすことを拒否してしまう。という。

以下詳しく。
人と時間、空間、感情、体験を共有するというのは、非常に人としてプリミティブな喜びであると思います。しかし、もしそれを求めるというのなら、オタクになるべきではないと思うのです。
オタクというのは昔のようにそれだけで犯罪者予備軍扱いされる状況とは比べるべくはないとしても、今もってなお嘲笑の対象であり、それゆえ時間、空間、感情、体験、等の共有などから楽しみ、喜び、を得たいと思うなら、より一般に受け入れられる趣味、を持つ方が容易である。と考えます。
それをふまえた上で、なお、オタクであろうとするなら、オタクは共有、共感とは違うところから得られる喜び、共有、共感を否定することによって生まれる感情。自分が持っているモノを相手が持っていないことに起因する感情。
優越感をもって喜びとするべきではないか。
と、そう思います。もちろんその優越感は外に出すべきではない、心の奥底でそっとしまって、馬鹿にされ涙がほろりと一粒あふれたときにでも、一人部屋の中で愛でるようなモノであるべきですが。

だから僕は例えばこの前ネット上で話題になった涼宮ハルヒの憂鬱のEDテーマをオリコン一位にしようという、いわゆる「祭り」が好きにはなれませんでした。「ハッピー☆マテリアル」もそうでしたが、それではダメなのです。どうしようもなく。
「大儀がある」と頭脳的に問題を抱えているということが論理的に推測されえる発言からも見て取れるように、J−POPを敵として団結して、戦うのも非常に楽しいのはわかります。しかし、だけども、それは、祭りの楽しさは、ネット的ではあるとはいえ、どうしようもなくオタクの楽しみではない、というより楽しみであるべきではないのです。
もし、自分がオタクであることを是とし、その趣味が自分の一部であると認めたなら、どうしてそういう楽しみを求めるのか。人と何かを共有することを楽しむのなら、それにふさわしく、人に嗤われる事のない趣味はいくらでもあります。
驚くことに、世の中には人に言うと感心される趣味が結構多いのです。音楽系なり、運動系なり、僕らは趣味をいって嗤われる事しかないので、なかなか気づきづらいのですが、世の中の趣味は意外と褒められるモノなのです。もし、共有を求めるのであれば、ピアノでも弾けばいい、体を動かせばいい。しかしそういう高尚な趣味から背を向け、どうしようもない趣味で大事な人生の、大事な時間を棒に振るのなら、どうしてどうしようもない趣味を持つもの同士で傷の舐めあいのようなしょうもない、共有、共感体験を求めるのか。
たかだか千円払って、「祭り」に参加した気分になって、その浅薄な喜びを、低俗な趣味を持つモノたちの下らないルサンチマンから生まれる喜びを持って、それでは、一般人のオタク以外の人の喜びの劣化コピーではないですか。
僕は言いたい。あなたはオタクではない。漫画を捨て、アニメを捨て、ラノベを捨て、ゲームを捨て、そして街に出ればいい。真っ当な趣味を、楽しみを、喜びを求め、一般人
になればいい。そのほうが、よっぽど幸せになれるのではないかと。
それでもなおオタクであるなら、なぜ、そこから背を向けないのか。まっとうな共有、共感という楽な道を捨てたのなら、人と人のつながりから得られる楽しさは優越感しかないんですよ。全く価値のない知識、技能、のちょっとした差に優越感を感じるようなそういう人間のクズとしての道を選ぶか、それとも一般人になるかという選択肢をオタクは選ばなければいけないんですよ。

クズならクズらしく、共感、共有という真っ当な人間が得るべき喜びをもとめて見苦しくあがくよりは、その道を自覚を持ち、立派なクズになるべきであると僕は思います。だから僕は、ネットで、例えば2ちゃんねるのVIP板で見られるような、朝目で見られるような、ああいったオタクコンテンツの共有的共感的楽しみ方をヨシとする気にはなれない。あれでは、あまりにも、安易すぎる。
人が楽しまない作品を楽しみ、人が理解できない解釈、楽しみ方をするような、そういった方向へこそ、オタクは深化していくべきではないかと、僕はそう思います。
以上。

追記
全体半分ぐらいは本気ですが、後の半分は筆走ってしまいました。普段の僕の言動と照らし合わせて、ああまた巽は馬鹿なことをいっているなあと嗤えばいいんじゃねーの。
いや、一年とかも見ているようなので、一応。
あ、日本負けたんだ。