2006年09月28日

今日の私

雨読


「脳波」ポール・アンダーソン
SFでは「タウ・ゼロ」、ファンタジーでは「折れた魔剣」と広いジャンルで傑作のあるポール・アンダーソンの処女長編、らしいです。ポール・アンダーソンは読んだ限りでは(といっても上記の二作と「地球帝国秘密諜報員」とこれだけだけど)、面白いんですが残念なことに殆ど絶版してしまっているようで、割と手を出しづらいですね。なのでまあ、だいたい古本で探すことになります。最近は結構見つけるんですが、値がわりと張るのが……
まあ、Amazonで買えって話ですが。

ある晩、世界中で不可解なことが起きる。ウサギは罠を自分で外して逃げ出し、十歳の子供が微積分を発見しかけ、白痴は自我に目覚めて行動を始める。全世界の脳を持った生物の知能が飛躍的に増大したのだ。しかし全ての人間が天才的な知能を持つことで、逆に社会秩序は崩壊を始める。かつて単純労働をしていた人間は皆仕事を拒否し、悩みもなかったような人間が狂気に陥るようになる。自分の知能の使い方にとまどう人間たちは、あるものは命を絶ち、あるものは新興宗教に走っていく。
しかし、時間が経つにつれ、少しずつ新たな秩序が見え始めてくる。

要は人類総アルジャーノンに花束を、状態になったというわけです。知能が増大しても、それをどう使えばわからない。チャーリーの用に誰かが導いてくれるわけでもない、誰もが混乱している、そんな事になったら世界はどうなるのかというある意味ではシミュレーションのような側面もある小説です。
科学者は、おそらく適応するだろう。子供は? 問題ない。しかし、頭を使うような事をしないまま大きくなった人間は? 適応する人間はする、が自分の知能に適応できない人間もいるだろう。出来る人間も、新しい状態になれるまで多くの時間を費やすだろう。それまでに人間社会は維持できうるのか。出来ないのか。そして適応できなかった人間はどこへ行くのか。
この小説はこういった「全ての人間の知能が増大する」場合どうなるのか、という疑問への回答になっています。が、ポール・アンダーソンだけに無論それだけではないわけで。
SF的な面白さで言えば、何故知能が増大したのかということに対する解が与えられ、宇宙を見渡したとき、人間が宇宙でいかなる存在であり、何をすべきかといった(僕好みの)スケールの大きな話もある。あるいは、知能とはいったい何なのか。それは人間にとってどういうものなのか、と言うことについての一つの答えもある。
知能が増大しても変え得ない性向といってものを、人類種としてみたとき乗り越えうる、といった全般的に理想的すぎる、あるいは人間中心的なきらいはあり、それは確かに何かと言われそうな気もします。しかし、破滅的な状況を設定しても、不必要に悲劇的な物語になることなく、希望をもてる終わり方にしているのは、SFとしての一つの正しい形だと思います。
話の面白さとSF的な面白さと思弁的な面白さをぶちこんで、一つの小説に作り上げているコレは確かに、ポール・アンダーソンの処女作に違いないと思わせる良作でした。


あー。コミティアの直前に割と大変な。
……。
今僕の冷静な判断力を総動員すると割とアレな予感がひらめいた。