2008年06月10日

まるき

秋葉原で通り魔殺人が発生したとかで色々話題になっているようです。まー人が多いというのもあり、ネットが普及しているというのもあり、カメラ付き携帯が普及しているというのもあり、そういう人が集まるところと言うのもあり、犯人が2チャンネルに描き込んでいたというのもあり、色々、アレですね、メディアを論じている人もいたりするようで、取り巻く状況が21世紀です。未来万歳。

個人的にはあんまり興味を引く事件というわけでもないのですが、僕の身を案じてメールやら電話が来たので、心配してくれる人がいるというのはありがたいことだなあと言う感想を持ちました。
でまあ、通り魔殺人なんて発生するときは発生するしなあ、自然災害みたいなものだよなあ、とかそういう事を考えていたのですが、調べてみると、7人が殺されて重軽傷者が二桁、という事件は結構珍しいということで、意外と際だった事件なのかなと思い直しました。

それで何がポイントなのかな、というとやっぱりトラックですよね。トラック。通り魔殺人で自動車を使って群衆に第一撃を叩き込むというのは、一度やられてみると当たり前のように感じるのですが、むしろそれは凄いアイデアの証拠と言うべきでしょう。斬新なアイデアというのは聞いてみると思いつかなかったのがおかしいとすら思えるものです。
車、というものはおそらく日本で一番人を殺している道具の一つであると思います。そのスピードと質量をもって殺傷力に優れた道具でありながらしかし、車が人を殺すのは多くは故意ではありません。不注意だったりどうしようもなかったり。殆どは運転手が殺すつもりもなく殺してしまう場合でしょう。
もしものを思うことが出来るなら、おそらく車もそれを不満に思っているのではないでしょうか。ダレでも手に入る道具の中で最強の殺しの能力を持ちながら、使うのは殺す覚悟もない人間ばかり。俺は殺すのが好きなんじゃない。楽しく殺すのが好きなんだ! そんな不満に身を焦がしていたに違いありません。
そして今回の事件がおきました。車にとって、待ち人は来たれり、と言ったところでしょうか。殺すために自分を使う人間が、しかも劇的に登場したのです。これからの通り魔殺人はみんなきっと、車を使ってくれるに違いない! もし車に心があるなら、そんな風に思っているのではないかと僕は推察します。

さて、通り魔殺人でどれだけの人間が殺されるかと言うことを考えると、その場の人の密度が大きく関係しているのではないかと思います。人が多ければ多いほど移動が阻害され、逃げることは困難になり、犯人が凶行を行える人数もふえていくと考えられます。強い原動機の付いた車を持ってすればその傾向はさらに強まるでしょう。人単体では点でしか攻撃できないのが面で攻撃できるのですから。小回りはきかないけど。
そういえば寮の駐車場でターンの練習をしている車があったけど、あれってきっと通り魔を行うときになるべく小回りがきいてより多くの殺傷を行えるように鍛えているのだろうと思います。なぜ警察は取り締まらないんでしょうね。早く捕まればいいのに。かように世の中には恐るべき凶器に満ちています。
もし凶器としての車をふるう人間が、例えば土曜日の夜の渋谷のスクランブル交差点に現れ、横断歩道の信号が青になってから三十秒ほど経ったときに突如アクセルを全力で踏み込んで人で充ち満ちた路上に動く鉄のかたまりとして突入したらと考えると、恐ろしくて昼も眠れません。

通り魔殺人。恐ろしいことです。世をはかなんだ気違いのために7人の地球より尊い命が失われました。これ以上地球より尊い命が一定以上の確率で生まれ出る気違いのせいで失われるということは、何としても防がねばなりません。もしこういった外道が行われうる可能性を残するとしたなら、僕たちはどうやって後世の人間に胸を張って正しく生きたと、言うことが出来るでしょうか。そう、世をはかなんだ気違いは自殺以外出来ないような思いやり社会を僕たちは手と手を取り合って作らなければならないでしょう。

まず、なぜ、今回の事件の犯人が7人もの命を奪うことが出来たのか。その答えは一つ。殺す手段があったからです。すなわち、原動機を積んだ数トンもの重量を誇る鉄のかたまりトラックと、人の肉を紙のように易々と切り裂くサバイバルナイフです。その二つの凶器があればこそ、犯人は短時間で複数回の殺傷を行うことが出来ました。
で、あれば、それを防ぐ手段はただ一つ。
人を殺す手段を持つことを全面的に禁止することです。
今回頭の良い政府の高官は、早速サバイバルナイフの規制を打ち出しました。慧眼です。さすが、と言ってもいい。仮にも政治の世界で一定の地位を得るだけの人ではあります。しかし、それでは足りない。それだけでは足りない。人を殺すことの出来る刃物は、サバイバルナイフだけだろうか?
もちろん答えはノー。各家庭に常備されている包丁も、果物ナイフも、カッターも、ハサミもあるいはペーパーナイフですら人を殺すことが出来ます。そのような恐ろしいものが手放しで存在して言い訳がありません。
よって刃物の全面禁止を僕は訴えたい。
もちろん、禁止するだけでは世の中は成り立ちません。包丁も、果物ナイフも、カッターも、ハサミも、ペーパーナイフも使われるからこそ存在が許されているし、なければまともに生活を送ることも困難になります。代替手段が必要です。
そこで二つ考えました。一つは建物に固定され自由に動かすことの出来ない装置で、中に切りたいものをセットすると、なんでもプログラムされたとおりに切断してくれる装置を作る。財力に余裕がある家はコレを買うことで、むき出しの刃物を家に置くことなく様々なものを切ることが出来るようになります。
もう一つは切断サービスです。お店に切りたいものを持って行くと、業者が注文通りにものを切ってくれる。もちろん業者も直接刃物を扱うのではなく、それようの装置を使うことになります。お金がない人もそこそこの金額で切りたいものを切りたいように切ることが出来るようになります。そういった装置も人間が手で作るのではなく、刃物を作り研磨し、装置にセットする装置を使って、刃物に人が触れる恐るべき機会をこの世界からいっさい駆逐することが出来ます。

刃物はそれで問題ないかも知れません。しかし、人を殺す手段はまだいっぱいあります。そこで次に僕は動かすことの出来る重いものと硬いものを禁止することを提唱したい。動く重くて硬いものは多くの人を殺してきました。自動車、電車などはもちろんのこと、花瓶、ビール瓶、石、様々な重くて硬いものが人の命を奪ってきました。そのような悲劇をこの21世紀に残して良いのか?! もちろん答えはノーです。そう、重いものがあるから、硬いものがあるから人は死にます。だいたい時速百キロでうごく数トンの鉄が存在を許されている狂気の世界に暮らすことに僕は大きな恐怖を覚えます。
全ての重いものは、すべて固定しなければならない。固定するだけではダメです。人間が自分から突っ込むかも知れません。もしも高いところからおちてコンクリートの床に突っ込めば命はありません。突き落としの狂気にも対応せねばならんのです。そこで、全ての硬いものは柔らかい物質で覆わなければならない。そうすれば重いもの、硬いものによる全ての悲劇はこの世からなくなります。もちろん、これにも代替手段が必要です。
まあ、これは簡単ですね。幼稚園児でも分かります。重いのがダメなら、軽くなるまで分割すればいいのです。一トンの物も2000個に分割すればたったの500グラムです。硬いならさらに柔らかい物で覆えばいい。これをさらにゆっくりと運ぶ。ゆっくり動く500グラムの柔らかい物体で人を殺すことは難しいでしょう。コロンブスの卵のように思われるかも知れませんが、シンプルイズベストです。重い物、硬い物はこれで簡単に安全にすることができます。

これで、十分でしょうか、尖った物が、重い物が、硬い物が、なくなれば、人の命が奪われることがなくなるのでしょうか? もちろん、そんなことはありません。もっとも原始的で、もっとも危険な物をみんな見逃している。そう、
最後に僕は人の歯や手足を禁止することを提唱したい。

手は人を殺すことが出来ます。首を絞めることで、酷く殴打することで、高いところから突き落とすことで、あるいはその他様々な方法で。銃は指で引き金を引きます。ナイフを握るのは手です。
悲劇の多くは手によって起こされます。

足は人を殺すことが出来ます。充分に鍛えられた足であれば、頭蓋骨を陥没させることも出来るでしょう。内臓を破裂させることも出来るでしょう。今回の事件で人混みに突っ込んだトラックの、アクセルを踏んだのは犯人の足です。
悲劇の多くは足によって起こされます。

歯は、人の喉笛を噛みちぎることが出来ます。
あるいは、悲劇の幾つかは歯によって起こされうるでしょう。

そう、人に、手が、足が、歯がなければ、人が殺されることはなくなるのです。全ての人間が、他の全ての人間のために、一人がみんなのために、みんなが一人のためにその手足を切り落とし、歯を抜くのであれば、人が人を殺すことはなくなるでしょう。達磨大師は過去の人間ですが、その姿はあるべき未来人類の姿を示しているとも言えます。世界人類が、達磨になるならば、今回の秋葉原の事件のような恐るべき通り魔事件が起こる可能性はなくなります。
殺人はほぼなくなるのです。人と人が殺し合うことのない世界が誕生するのです。

これこそが僕たちが未来の子供たちに残せる、人と人の思いやりに満ちた最高のユートピアではないだろうか、そう僕は思います。