2010年04月25日

そのた


えきねっとの使いにくさが天元突破している。
恒星系とか銀河系とか超越している。所謂一つの悪夢だ。夢なら大きさは関係ない。毎回予約が完了するまで、何だかんだで5,6回はログインし直している。状態ぐらい記憶しておけよと、肩を掴みぶんぶん揺すりながら耳元で大声で叫びたい。鼓膜が破れる勢いで。
しかも今回は、購入手続きを仕様としたら混雑しているから、後で試してね! ってサイトのトップまで戻されたぞ。なんだこれは噂に聞くウィザードリーの転送の罠か。まあ、壁の中に転送されなかっただけマシと思うべきか。
そりゃあ、競争相手がいないから、どんなウンコでも僕らは拾わなければならないとはいえ、どういう神経だったらこんなシステム使うことを強制できるんだ。ウェブだけじゃなくて駅の端末のも気が狂うぐらいつらいし。まえ一度だけ使おうとしたけど、全然上手くいって諦めて結局駅員よんで使い方教えて貰いましたよ。この若い僕が。
あんなクソ端末増やしたって、みんな窓口で買いたがって経費削減にもならんだろうに。一体何処のSIerがつくっているんだ&どうしてこんなクソシステムをJR東日本は受け入れるんだということに納得がいかない。
社員は別パスで切符を買えるorただで乗れるのかな。
はては切符受け取りに言ったのにクレジットカード忘れたせいで無駄足ふんだし。ああ、日曜日から気分が悪い。


建物を建てるときは、だいたい地鎮祭というものをやるという噂を聞いた。同様に、コンピュータに関わる職業の人間も、プロジェクトが始まる前にコンピュータの神に祈りを捧ぐべきなのではないかと思う。チューリングでもノイマンでもバベッジでも誰でも良いですが、一柱コンピュータの神様を奉り、プロジェクトの火の用心をお祈りするべきではないかと思う。
燃え上がるのは十中十九人災であるからどの程度御利益があるのか知らんが。


グーグルが警察に犯罪者のDocsのデータを開示していたというニュースを見ると、まあそうなるだろうなあとか、犯罪をするには脇が甘いなあとかも思うけど、やっぱりなんかやだなーと思う。
クラウドとかSaasとか呼び方は何でもいいけど、ユーザデータをサーバに保存することで利便性を高めるサービスというのは、利便性が高いのはもちろんそうだろうけど、自分の個人データを会社が、少なくとも技術的には好き勝手できてしまうというのは、やっぱりきもいと思う。よくこのサービス超便利、みんな使えよ! というのを見ても、そのサービスがいったいどの程度信用できるのかどう判別するのだろうかと思う。
たとえば、Evernoteとかもクライアントソフトで暗号化して、サーバの情報見ても何もわからないとかだったらまだ納得できるけど、絶対そうはならないしなあ。
個人的にはOpera Uniteでメモアプリとかあってスマートフォントで使えればいいなあとか思うんだけど、今の流れはそういった方向ではないんだよなー。


若者の車離れという言葉が聞こえるようになってずいぶんになります。理由としては諸説がありますが、とりあえず若者はお金持っていないからと言う言説からは昔のフォードのエピソードを思わせて心が温かくなります。最近は若者から、離れる前に近づいてネーヨ、爺どもがという切れ気味の言説に同意の声が集まってるのを見たりします。これは僕が昔から悩んでいる、何故甲子園に出る若者はずっと若いままなのかという問題と近いのではないかと考えさせられます。
因みに私は断然若者の草食化が原因だと思っています
。例えば草食動物は群れの中に見張り役を置き、敵が近づくと群れに警告します。これは個体の生存確率を下げることで、群れ全体の生存確率を上げるという行為です。こういった多くの草食動物で見られる利他的な行為から考えると、草食化した若者に多く見られるという車離れ、これはすなわち個体の生殖確率を下げる可能性を考慮したうえでも車というを非効率的な輸送手段を放棄することで、環境負荷の増大を防ぎ人類全体の生存確率を上げるという非常に草食動物的利他行為であるということと理解されます。

先日十以上年の離れた、つまり草食化していない肉食の上司と話していたとき、車を持たないことを当然と思う事に違和感をもたれたように言いました。ジェネレーションギャップを感じたようです。勿論僕はジェネレーションギャップをもたれたことに違和感を感じたのですが。
どうも、昔の人は勤め人になって、何年かしたら車を買うのを当たり前だと思っていたようです。まあ、少なくともウチの会社では。これが高度成長期やバブルの価値観の名残かと思い何とも言えない気分になります。今は勿論、買う人は買うし、買わない人は買わないというようになっています。車好きは激しいのに乗っていたりもするし、それ以外は純粋に移動用として買う。半分ぐらいは買わない。持つことが一般的なステータスにはなっておらず、単なる移動手段の一つあるいは趣味の一つでしかない。電車趣味が趣味の一つのように。
その理由に魅力的な車がないという話をする人が居るが、そもそもそれ以前の問題として車の個体識別ができない。これは僕が興味がないというのもあるけど、他に興味がない人に聞いても同じことを言っていた。正直全部タイヤが四つで前と横と後ろにガラスがついていて屋根があってライトがあって、金属でできていて、やることといえば走ること。それで区別を付けろという方が難しい。勿論大きいとか小さいとか車高が高いとか低いと過積載能力があったり無かったり、スピードが出たりでなかったり、乗り心地が良かったり悪かったりするように色々違いがあることは分かるけど、顔の違いがわからない。
最近予約Priusの顔が見分けられるようになって、自信満々であ、Priusだと言ったら、残念なことに違って笑われたと言うことがありましたが、僕としては、例えばみつみ美里と甘露樹の絵の区別がつくのかと、そういうことが言いたい。
例えば、タイヤが五つあるとか六つあるとか、七つあるとか八つあるとか、あるいはフロントガラスがあったりなかったり、黒だったり白だったり、天井にもタイヤがついていて転がってしまってもそのまま走れるとか、牛が引いているとか馬が引いているとか、動力が電力だとかガソリンだとか、人力だとか犬力だとか、羽があって飛ぶとか、水中に潜れるとか、そういった根源的な違いがあれば、僕も多分見て違いが分かるんですけどね。
そうでもない違いなど、大した違いでもないし。
というわけで、車の魅力ではないことが分かります。

では、何故買わないのかといえば。それはとりもなおさずお金につきます。車にかかるお金と、車によって得られる便益、それを比べると、どうもお金がかかる可能性が高すぎる。
先ずそもそもの、車代。中古でも最低数十万円、新車でちゃんとしたのを買ってオプションを付けたりすると、数百万円かかるといいます。勿論ローンで買えば、その分利子が付いて、金貸しどものお腹の脂肪分を増やす一助と成ってしまう。僕の日々の労働の報酬がが、でっぷりと太った資本家のビア腹の一部になる、何ともおぞましいことではありませんか。
そしてもちろんガソリン代。ガソリン代。人がご飯を食べて動くように車はガソリンを飲んで走るため、車を車として役立たせようとすると、それだけでガソリン代がかかります。古代の無数の生物たちの命の、黒い結晶を燃やして、ただ北へ行って南に戻り、西へ行って東に戻るそんな活動に使う。古代でプテラノドンが泣いています。
他にも税金を払わされたり、車検をさせられたり、駐車場代をとられたりと、車を持つだけで払わなければ成らないお金は無数にあります。しかもこれらのお金を払わなければ成らない確率は、きわめて十割に近い! のです。
更にまだ払うお金があります。
車を運転している以上、また運転しているのが神ならぬ身である以上、事故を起こしてしまう可能性は、それなりにあります。もし、信号が赤なのにブレーキと間違えてアクセルを踏んでしまったら、前方の車にぶつけて修理代や治療費を払わなければ成らなくなるかも知れません。あるいは飛び出してきた子供を避けられず、その子供が命を落としてしまった場合、心理的なショックも大きいですが、金銭的ショックも多大なものになります。子どもの可能性は無限大だから、払う金も無限大に近づきます。これを一般には賠償金空間の特異点と呼びます。

そういった様々なケースを勘案し、一生に払わなければ成らない車関係のお金の期待値を計算すると、数千万になるという研究結果がある可能性も否定できません。
そういった表に出ないコストを含めた様々なことを考え、車によって得られる利益と勘案し、つまらない社会的ステータスというものにとらわれない経済人に近づいている最近の若い人たちは車を買わないのです。
そのような最近の若者を一言で表すとすれば、草食系ホモ・エコノミクス、とでもいえるのかもしれません。