2011年07月28日

進化的妄想

最近読んだ本をもとに適当に文章を書いていたらなかなか楽しかった。Twitterやってるとブログ書かなくなるけど、こう、だらだらしょうもない長文書くのもやっぱりいいなー。

最近進化心理学の本を読んでなかなか興味をそそられた。
進化の観点から人間心理を解き明かし、人の心理メカニズムがどういう機能を果たしたために人間の生存の役に立ち、結果として現生人類の精神構造を形作っているかということを分析している。
道徳や愛、信仰などと言った賞賛されるべき性質も、暴力などの犯罪や他集団に対する徹底した残酷さなどの否定される性質などもどれも等しく人間が置かれた環境に適応した結果というのが面白い。非常に散文的な気分になれる。

まずそもそもとして進化というのは面白いものだなあと思った。よく生物の進化を説明するに当たり、目的志向の説明を聞くことがあるが、それがいかに的外れかというのがようやく分かってきた気がする。
単純に、たまたまある環境下で残りやすい性質の生き物(あるいはそれ以外の何か)が残る、というトートロジーでありそれ以上でも以下でもない。非常にシンプルでとても強力なアイデアだと思った。
それを繰り返すだけで非常に複雑な構造体である人間とかできてしまうんだから、途方もない時間というのは素晴らしいものだと思う。

もうひとつ面白いと思ったのは、これまで生物が進化によって適応する環境の変化というのは、生物にとっては受動的なものであると思ってたんだけど、実は違うということだった。気候の変化で雨が減ったとか、植生が変わったとか、サバンナになっちゃったとか、そういった環境の変化以外に、生物が適用する環境の変化はないと思っていたんだけど、実際は、生物が進化すること自体が環境の変化となり、進化が進むというフィードバックが生まれているというのが面白い。
性選択なんていうのはその例で、孔雀とかのオスの綺麗で無駄な装飾がメスの嗜好という環境の結果によって生まれている。一方でなぜそういったオスの装飾を好むメスの嗜好が生存に有利な特質となったのかというのも面白い。なんにせよああいった一見不条理な極端な性質はフィードバックの結果なのだと思う。

さらに人間は社会を構成することで、人間自身が人間が適応しなければならない環境を構成するものとなり、社会での生存に有利な形質をもつものが生き残り、それ自体が社会を変化させさらにそれに有利な形質を持つものが生き残り...というサイクルの繰り返しが、人間の知的能力が極端に向上した原因なのかなあと勝手に妄想している。コミュニケーション能力が高まり協力できるようになると同時に、騙りの危険性が増し、それらのタダ乗りを防止するための能力が生まれ...というか対応できない集団は死んでいって、その開いたスペースに対応できる性質を持った集団が広がっていったというだけなんだろうな。

道徳や宗教が群選択の結果として生まれたというのも人間の集団同士の争いが頻繁にあったという状況をかんがれえば、なるほど納得をする。身近な人間に対する不誠実さが十分に進化した人間に対しては、大きく不利益に成りうるから、それを避けるような形質をもった人間が生き残ろる。一方で他集団へも道徳を持つような人間は、集団同士の戦いで淘汰される。

そういや群選択自体は結構賛否両論あるようだけど、僕自身はあまり違和感がない。利己心というものを追求したところで、互助的な行動が生まれるというのはおかしいことではない。社会が小集団で構成されていて、そこから外れた場合の生存確率が激減するような環境ならなおのことで。

こういった精神的面での進化がたかだか十万年の間に起こったということを考えると、人間の精神というのはかなり個体ごとに変化の幅が大きいといんだろうな。精神面でバリエーションの豊かな子供がたくさん生まれて、その中からより適応した個体だけが残る。アシュケナージ系ユダヤ人のIQ分布の話を聞くと、目に見える進化は数百年でも起こりうる。ゴキブリホイホイが生まれてから、飛ぶゴキブリがスゲー増えたとかいう伊集院光の話を見ると、これはそれほど驚く話でもないんだろうな。
人間の進化のスピードは僕らが思うよりかなり早い。

というわけで、自分の感情や思考が過去の環境に適応できた人間の結果の集大成と考えると、実に決定論的な気分になって愉快になる。一方で、実感として自由意志があるような気もして不思議。僕自身の考えとしては、人間は内部状態が同じで、全く同じ環境に置かれれば、基本的には同じ反応をすると思ってる。すべての行動毎に並行宇宙に分岐するという考えには、誰かが誰かであるというのが存在しない。それに決定論的な存在じゃないと、コンピュータへの意識のアップロードが出来なさそうだし。

脇道にそれた。ともかく進化の結果として得た能力をもとにして人間が環境を変化させる能力による社会の変化のスピードが上がっているというのはあると思う。しかし現代となっては、これまでの再生産ベースの進化がいかにも遅いという話はあるのかもしれない。つまるところ環境に適応できる人間が社会を占めるようになるまえに環境自体が変わってしまうとか。
それに対して人間は人間自身を変化させる技術を手に入れつつあるわけで、ランダムな遺伝子の変化のなかから偶然環境にとって良い性質を持つ人間が生まれるよりも早く、自分自身の遺伝子を変化させる、あるいはナノテク、サイバネ技術で自分の肉体能力や、精神能力を改善していく。ええ、カーツワイルの話は大好きですよ。

先進国の出生率が減るというのは、我々が子孫を残す努力をする性質を持った人間の子孫であるという事を考えると不思議で、適応できず淘汰されてしまうのではないかということを思うけど、これが超長寿命化、ポストヒューマン誕生への先鞭であると考えるとまさに予定調和とも考えられる。これは完全に妄想。
なんにせよテクノロジーにより人間を変化させうる今後において、古典的な進化のみを念頭に考えるのは無意味だろうなあとは思う。そしてその結果として今後数十年で、人間とはなにか? というのが哲学ではなく非常に実際的な問題として出てくるのだろうと思う。

とても楽しみだ。