2006年05月18日

人に何か教える。

という状況になることを全力で避けてきたし、教えられる時もあまりまじめになっていなかったので、教える教えられるというのは苦手な話題なのですが、いい加減そうも言っていられないのだろうな、と思ってから数年はたつわけで。
正直僕の説明能力の低さはどうしたものかという話なんですが。説明能力が低いなら低いで回りくどくわかりにくく書くぜ! みたいなスタンスもいけないんだろうけど。それは僕の問題なのでどうでもいい。

ともかく、今日はとても疲れたので、まじめなつもりで何か書く。
某氏の話とネット上の某ページを読んで、僕がこれまで苦手意識が強くで全力で避けていた体育会的なものも、教えるという点では意味があるんだなあと今更ながら感心したというか思ったというか、そういう話です。
ただそれを理想的に行うためには、教える方と教えられる方があらかじめそれについて納得している必要はあるだろうし、それが一番困難じゃないかとも思いました。
四の五の言わずに受け入れろというスタンスでの教育は特に自分が賢い(上手い)と誤解している僕のようなアホの反発を呼ぶだろうし、教える側はそれを鬱陶しく思う可能性は高く、強制力がない限りその時点でそのシステムは崩壊するんじゃないでしょうか。その点実際の体育会系サークルはあらかじめ下地があるというかそれを受け入れる人間だけが入って残っていくんだろうから問題ないんだろうけど。

よく考えるのは大事というけど、考えるのに必要な具材というか下地となる知識なりなんなりがなければ、馬鹿の考え休むに似てしまう可能性は高いと思います。方法論と材料というかどっちが大事かといえばそりゃどっちも大事なわけですが、下地は教えられたことあるいは本などに書かれていることなどをそのまま受け取り、血なり肉なりにした上でじゃあ考えるかという段階に行くんだから、下地を作る時点でうだうだ言うな馬鹿ということなのかなと思ったんですよ。下地なんて教えられなくても自分で勝手に作れる人間もいっぱいいるわけで別にそういう人はどうにでもなるんだろうけど。
僕が言いたいのは考えることについてではなく例のつもりだったのですが、例が悪すぎますね。はい。
それはともかく、じゃあそう言う手前はどうなのよ、といわれりゃ口を閉じてすみませんって感じな訳ですが。なんというか僕らのカルチャーに割と共通する問題なんじゃない? という一般化をして逃げてみる。僕らのやっていることについて教育の方法論が確立されておらず、目標点すら個々人によってかなり異なってるため、最終的には自助努力だよねというところに行き着くから、ということでもあるんだろうけど。
ただ、非常に近い分野では方法論は確立されているし、最低限というレベルは共通してあるんだろうから、そのへんをとっかかりにどうにかするというのが一般的な話になるのかな。
とりあえず僕は下手糞なんだからくだらないことを書く前に自分で自分を救いなさいという話になったので終わり。