2006年07月16日

日記!


成長の限界 人類の選択を読む。普段読まないたぐいの本なので時間がかかるなあ。これは環境問題の本で、人間が地球環境に与える影響は限界を既に超えている。超えてはいるけど、適切な対応をすれば持続可能な社会を築くことが出来るという内容の本です。非常におおざっぱに言うとですが。
環境問題についてはほとんど興味がなかったのですが、何というか、大変な状況なんだなあと。僕の生きている間に崩壊が起こりうるわけですから、他人事ではないんですけどね。
人間が限界を本当に超えてしまったかどうかについては、きっと色々議論があるんだと思いますが、人口や資本の級数的な増加のために、成長が必ず限界にぶち当たる、というのは非常に納得のいく考え方だなと思いました。
つまり、細かいことはさておいたとして、人口、資本というものを形成するシステムにある正のフィードバックループが根本的に問題であるという。もちろん環境への負荷を下げるための技術開発というのが大事であり、なおかつ正のフィードバックループを無くす、と両方やらないと持続可能な社会にはならないんじゃないかというのが、本の中のコンピュータシミュレーションの結果のようです。
この本の中で示されている、ではどうするべきかという内容については、実現が大変ではないかと思う。それは多分、三十年間このことを主張し続けている著者たちは一番感じているのだと思いますが。
じゃあ、僕が何を出来るかと言えば、出来ることはほとんど無いわけですが、とりあえず心の隅に止めておくと幸せになれるかもなあと思ったわけですよ。
まあ、心の隅に追いやる前にレポートを仕上げなければいけないんですが。


なんだっけ。そうだ、アレだ。
僕は考える必要のないことは、考えなくても良い。と思っているんですが、そのことを話したら、考えなくても良いことをどうやって判断するというか考えるのか、そもそもその考えるというのが考える必要のあることなのか云々と言われたような気がします。いや、細かいところは覚えていないので。
要は再帰的になっちゃうんじゃねえの? みたいなことだと思うんですが、僕は何でそうなるのか、よくわからない。というか、それは単なる言葉遊びなのじゃないかなあと思ったりする。
考える必要があるかないか、という事を判断するのは、非常に身体的な話であり、論理的な所ではないんじゃないかなと思います。いや、論理的でないというと何ですが、多分に楽しければ良いんじゃないの? みたいな要素がおおいというか。だからそんな考える必要があるのか無いのか、と言うこと自体を問うのは、無駄だと思う。もちろんそれを考えるのが楽しければやればいいのかとも思うけど。
そもそも僕のこの辺の自分の思考をどう持って行くかという指針は、単に僕がどう考えればストレスを感じずにいけるか、という事に過ぎず、もの凄く個人的であり必ずしも他人が納得できる物ではないと思う。それを人に話した時点で失敗したなあとは思います。すみません。

でも論理とか合理的な考え方というのは大事なんですが、結局感情が一番大事なんじゃないかなあと思います。もちろんそれは非常に個人的な事についてですけど。いらんことに悩んでいる、と僕が思っている、のを見たりするとそんなことを思ったりしたりします。
とはいっても、そういうのって悩むのが楽しいから悩んでいるんでしょうし、どうこう言ったりはしません。僕が一番アホだったと言うことだって十分あり得る、というかあったし。


どんな文脈だったかは忘れたけど、「君だってスレイヤーズの事とか持ち出されたらアレでしょ」みたいな事を言われて、いやもう一周して平気ですよ、と返答したんですが、あのなんというか、主人公が唱える呪文を言われて発狂しそうになった。
全然ダメじゃん。
いや、よく考えればというか外から見れば、今だって大してやっていることは変わらないんだけど、あの頃の精神状態とか、ああ! もう!! みたいな行動を思い出すとここではないどこかへとランナウェイしたくなる。
若き日の過ちよ……。と言いつつ日々過ちを量産し続けながら未来の僕がのたうち回るような恥を作り続けているのかもしれない。
例えば、このサイトとか。


そういえば、成長の限界に出てきたシステム思考って複雑ネットワークとか、複雑系とかに関係あるのかな。多少興味はあります。インターネット上の情報分析にこの辺のやり方って出来ないのかなあ。というかやっている人いそうだよなあ。


ハルヒ盛り上がっているけど、その実騒いでいる人意外とさめてるのかなあと思う。というか僕の周りで僕を含めて原作面白いと言っている人がいないし。小説読んで面白さがさっぱりわからなかったと言っていた人は、僕と話して安心して、良かった! 時代について行けなくなったのかと思ったよ、と言っていたけどそれは単に二人して時代について行けていないだけのような気がする。大丈夫最初からキャッチアップ出来ていなかったよ。
類は友を呼ぶし、本当に盛り上がっている人は僕の周りにいないのかもしれないけど。


そういえば前のエントリー見て僕がワールドカップを嫌っていると思っている人がずいぶんと多いように思いますが、そんなことはありません。別に嫌っているわけでもないし、ワールドカップを見て楽しむのは良いんじゃないかと思います。僕は単に興味がないだけです。
僕が不思議なのは、日本のカーリングが活躍すればカーリングが好きだと言い出す人が増え、カーリング教室は盛況になり、フィギュアで金メダルが出れば、フィギュアが好きと言いだし、子供向けのフィギュア教室が盛況になり、今度はワールドカップワールドカップと騒ぎだす人間の心理はどうなっているのか理解しがたいなあ、と言うことです。あるいは秋葉原の観光地化とかもそうなのですが。
個々の事象についてはまあいいんですし、みんな大いに楽しめば良いと思うし、僕に当てこするようにワールドカップの話題をされても困るんですが、そもそもどうしてそういう言動が生まれるのか、さっぱりわからないという、純粋、とは言い難い多少悪意の混じった疑問がある、ということです。
と言うことについてなんかまとめて書こうと思っていますが、なかなか面倒です。


研究室の人と話していると、当然のように海外に行きたいとか、旅行に行きたいとか言う話になるのでビックリする。旅行……行きたいですか? 僕は全然行きたいと思いません。家にいるのが、あるいは行き慣れた場所にいるのが一番ストレスを感じません。
僕がある程度ルーチンな行動を好む、と言うことでもあり、それは要はひきこもり的な考え方であり、一般的な考え方でもないのはわかっていますが、なんかみんながみんな旅行したい! したいのは当然! みたいなことを言っているのを見ると、何というか居心地悪いなあと言う気分になる。

最近思うんですけど、僕は趣味嗜好はまあ、SFとか好んでいるわけで一般的ではないのは理解していたのですが、もしかしたら考え方も一般からずれていたのか? という気がし始めています。いや、割と保守的であり(政治的な意味ではなく)、普通な人間だと思っていたんですが、意外とみんな僕と違う考え方するなあと言うか。
それは、むしろ周りが特殊なのかと思っていたんだけど、だんだんとさすがに僕の方がずれているのか? みたいな気分に。

でもやっぱり僕の考え方のほうが普通だと思うんだけど……。いや、旅行好きとか嫌いとかそういう個々の話ではなく、もうちょっと一般的な話でですが。
この辺のも上のとまとめてなんか書きたいなあ。


あーなんかこれくらい書けば結構日記っぽいなあ。うん。間違えなく日記だ。