2012年04月26日

残業創世記

今となっては昔のことであるが、かつてこの世界には残業は存在しなかった。この世の全ての平日は定時退勤日だった。そして今はもうないその楽園にはあの伝説のアフターファイブが存在し、五時を過ぎると人々はビルからあふれ出ると街に蠢き、太陽の下で酒を飲み交わしたといわれている。
だがやがて貪欲な資本家は自らが雇う労働者が9-5時しか働かないことに怒りを覚えるようになり、労働基準法の神に労働者をより酷使できるように祈った。
神は第36条をつくり、よしとされた。
第36条を見た資本家は己の雇っている労働者のなかから8人のYESメンを集めると大きな釜に投げ込んだ。資本家が鍋を48時間よく煮込むと溶けたYESメンの中から御用組合ができあがった。資本家は御用組合をみてうなずくと、36協定を結んだ。そしてこの世界に残業が産まれた。
神は言った。「残業よ。ふえよ。一日を満たせ。労働者を従えよ。残業は一週間を支配せよ!」そしてそうなった。

かくして資本家は労働者を増やすことなく新たな労働力を得ることに成功した。一時的に満足していた資本家はしかしやがて、労働力の増加に比例する残業代の増加に不快感を憶えるようになった。一体なぜ自分が雇っている人間を、自分が好きなように扱ってはだめなのか。だが資本家が解決策に乗り出す前に、週40時間を超す労働に適応できなかった労働者が存在することが明らかになった。
当然ながらそれは月曜日の朝であった。
512人の労働者がサイズの異なるガラスを人数分地上に設置すると、ビルの屋上から次々とガラスに向けて飛び降りた。そのガラスの割れる音は、蛙の歌の音階をなしていた。その音楽を2392人が聞いた。
その後23個の腐った卵を投げつけられたあと、資本家は思った。実際、労災認定というのは恐ろしいものである。
故に資本家は言った。「労働者は毎週N曜日は定時に帰るべし。」
かくして定時退勤日が産まれた。
まだ定時の概念が忘れ去られていない時代であったため、それは歓喜をもって受け入れられた。その後数年は素晴らしい時代であった。週一回とは言えアフターファイブは復活し、人々はダンスホールで踊り狂った。彼らがあまりにくるくる回るため、平衡器官が著しく発達して外傷を負う数が減ったために、多くの外科医が職を失った。
しかしやがて定時退勤日の定時五分前に資本家は管理者に命じて労働者に期限一日の仕事を積むようになった。定時退勤日の残業は書類の申請が必要であり、かつ管理者ら合計29の職印を必要とするため、だれも残業をする人間は居なかったが、仕事を終わらせられなかった労働者31人が解雇され、世をはかなんで自殺すると、労働者は定時にタイムカードを押してそのまま働き続けるようになった。
これがサービス残業の誕生であった。
「こうしてわたしは労働者の私的生活を非常に重視してこうした定時退勤日などの施策をうっているがしかし労働者は自らの意思により定時後も残り仕事をしているのであってそれは率直に言ってわたしの関知するところではない」
神は大きくうなずいた。
やがて定時退勤日は、週二日になり、三日になり、やがて五日になった。それは、まるで五日の楽園が再来したかのようだった。全ての労働者は定時に帰宅し、アフターファイブを満喫していた。只一点残念なことは、楽園は書類上にしか存在しなかったことである。
その頃には毎週月曜日には蛙の歌や、赤い靴を履いた女の子や、グリーングリーンなどが聞こえるようになっていた。ガラス業界はガラス特需に沸いた。一部のガラス企業は割れたときにキレイで正確な音階を奏でるガラスの開発に成功し、大いに売り上げを増やした。また一方で割れたガラスを片付ける清掃業者や、踏んだガラスで怪我した人間を治療する外科医も特需に沸いていた。外科医は再び人気職種となり、土管工になっていた多くの元外科医は再び病院を開いた。
資本家は書類を見せ、我々は労働者を週40時間以上働かせたという事実はなく、彼らが肉体で音楽を奏でているのは、彼ら自身の問題である、と主張した。それらの書類は全く完璧であったため、それを否定する人間は誰一人としていなかった。一方で資本家は定時退勤日のうちの一日を定時退勤日を上回る真の定時退勤日、ハイパー定時退勤日にすることで自社の福利厚生をアピールした。
そして平和なM年間が過ぎた。進化の力は長時間労働に耐えられない人間を淘汰し、いまや労働者の98%は長時間サービス残業に適応していた。2%は定期的に入れ替わったが、新しい労働力は容易に手に入った。外科医が再び失業したためである。資本家は残業代なしでますます多くの労働力を手にすることが出来るようになり歓喜した。
だがやがて教育された労働者の手により資本家の楽園は危機に瀕した。赤色灯を持った集団に教育された労働者が社内に隠しカメラを設置してサービス残業の実態を世の中に暴露したのである。それを見た神は言った。「結局のところ法律は法律であり、それは守らなければならないのである」
しかしもはや資本家は払うべき残業代を払うすべを持っていなかった。それらは全て彼個人の資産となり、いまや会社とは関係なくなったからである。そしてそれらは今や様々な資産に形を変え世界中に遍在していた。
そこで資本家は言った。
「だがしかし、こうして節約されたコストはすべて消費者に還元しており、労働者とはすなわち消費者である。わたしは真に社会のことを考えている人間だ。かつまた全ての人間は自分自身を管理している。そういった観点を持つと、あらゆる人間はすなわち自身の管理職であるといえる。では果たして労働者=人間=管理職に残業代を出す必要があるというのか」
神が大きくうなずくと、全ての労働者は自らの管理職となった。
労働者は、自ら自分の労働を管理しそして自ら一日14時間以上働くことを決めることになった。そこには資本家からの強制は一切存在しなかった。一方その頃、赤色灯集団は所有したことがないカッターナイフを所持していた罪により全員拿捕され、網走の刑務所に収監された。ジャンボジェット機の墜落や戦時中の核爆弾が爆発するなどの不思議な事故が多発し、網走の刑務所はやがて無人となった。
資本家はいった。
「わたしの会社は福祉やワークライフバランスを考えている。毎週月曜日から金曜日は定時退勤日であり、土曜日日曜日は無休出の日である。かつまた二週に一度の水曜日はハイパー定時退勤日であり、月初めの水曜日は、超ハイパー定時退勤日である。そして勿論、半年に一度のウルトラ超ハイパー定時退勤日も用意した。これほどまでに社員のワークライフバランスを考えている会社は我が社ぐらいだろう」
だがもう定時が何かを知るものは誰も居なかった。
定時は今やあの神話の暗い霧の中に隠れその正体は知ることは出来なかった。思い出すにはあまりにも時が経ちすぎていた。誰もが一日約14時間、週102時間の労働時間に追われ、もはや過去を思い出す余暇を持っていなかった。
今が過去より良くなっているのか、それとも悪くなっているのか、誰にも思い出せない。だがきっと、皆がこれだけ働いているのだから世の中は良くなっているのだろう、そう思って働き続けていた。
ある日、総務の人間は新たにウルトラ超ハイパー定時退勤日を超える年に一度の定時退勤日の名前を決めるために語学辞典を引いていた。5時間ほどの綿密な調査の末に良い単語を発見し、新たな定時退勤日の名前を書類に書き足し、コピー係に原稿を送りだした。今日も社員の福祉のために良い仕事が出来たと満足げに大きくうなずくと、彼は素早く帰り支度を済ませて足早に退社した。
それは火曜日の五時一三分のことだった。

2012年04月01日

グリーンバーグとポロックの聞いて

昨日、友達に誘われて、ポロックの研究者による講演会を聞きに行った。カルチャー果てる地である神奈川県西部に住む僕にとっては近年まれに見る文化的な活動である。

ポロックはこんな感じの壁紙にすると映えそうな絵で超有名な画家。
僕はポロックは何となく面白いし見ていて気持が良いなあとは思うけど、それについて善し悪しを語る言葉を持たないので、実際にプロがどう言う形で語るのかを聞いてみたかったので講演会を聞きに行った。

今回参加した講演会では、現代芸術の批評家としては第一人者であるグリーンバーグの批評を軸にポロックを解説していた。講演はわかりやすくてすごい面白かった。2時間があっと言う間で、たまにはこういうのも良い物だと思う。

以下自分が理解した範囲で講演の内容をまとめてメモしておきたい。

まず講演者の認識としては、ポロックは、ピカソ以来の最高の芸術家であり、ポロックによって、現代芸術の幅が広がった。まあ、その割には国内に研究者が二人ぐらいしか居ないらしいので、アカデミックな場にあまり現代芸術に興味がある人が居ないのかもしれない。
一方グリーンバーグは現代芸術批評家の中で最も重要な人物であり、批評を通じて現代芸術を牽引した人。現代芸術を語る人はグリーンバーグを抜きにして語ることは出来ず、どういうスタンスを取るのかが考えなければならない。
この二人によって、現代芸術というか、アメリカというかニューヨークを中心とした現代芸術が発展したというほど重要な二人という。

まずポロックが評価されることになった有名な作品群の形式は、オールオーヴァーのポード絵画と呼ばれている。オールオーヴァーは画面をすべて均質に覆う様式であり、すなわち絵の中で中心となるモノはない絵画様式。。
ポードはpourの受け身で、ようは絵の具を垂らして描いているという描画方法。どちらも絵を見ると一見して納得できる。

この壁紙模様の何が革新的だったのかというと、それは写実的な描写を破壊したピカソなどのキュビズム様式でさえ維持していた従来の絵画の枠組みを完全に壊したことにある。
それは絵画の中に中心と部分があることである。有名な泣く女の絵はそれ以前の絵画と比べるととても前衛的だけど、伝統的な絵画と同様に、主題となる中心と、背景となっているそれ以外の部分がある。前景となる女が居て、後景となる床と壁がある。
一方オールオーヴァーと言われるポロックの絵は、一切の中心がなく、また前景となるモノも後景となるモノもないところか、モノと言えるモノも認識できない。すべてが図であり、地としても認識できる。
ポロック以前では絵画の当然の要素として、そもそも意識もされなかった要素を壊すことで、芸術の幅を広げている。

また、イーゼル画と壁画という観点からもグリーンバーグはポロックの斬新さを表現している。イーゼル画は持ち運び可能な、現実世界とは別の自立世界。一方で壁画は現実世界の一部として存在する絵。
ポロックの絵はイーゼル画を超えて壁画に近づきつつも、壁画からは一歩引いた、イーゼル画と壁画の間となる独自の形式となっている。
この辺は正直理解できなかった。ポロックがイーゼル画から逸脱して、それ自体が完結した自立世界ではなくなっているのは分かるし、確かにデカイんだけどじゃあそれが壁画に近づいているのかというと今一不思議な感じ。
非イーゼル画=壁画という風に語られている感じを受けたけど、これは講演という制限の中ではしょって説明しているからかもしれない。

何にせよグリーンバーグはポロックが独自の形式を打ち立ててセンセーションを起こす以前からポロックに着目し、評論を通じて賞賛し続けることで、ポロックを支援していた。

というのが前半。後半はアメリカ型絵画というグリーンバーグの著名な論説を元に、ポロックやロスコなど抽象表現主義と呼ばれるニューヨークの芸術家集団についての解説があった。
これも如何に彼らがピカソ的な形式から離れて新しい形式を打ち立てていったと同時に、芸術的には地方だったニューヨークが今のように現代芸術の中心となったかという話でも合った。
ちょっと面白かったのは、こういった形式を破壊していくことから、現代芸術は過去との連続性を破壊していっているようにみえるが、実際は新しいモノを作り出すことで、模倣ではない高い質を維持し続けている。つまり前進することで初めて、前と同じ位置に立てる。そういう意味では非常に連続性の高いものである、ということをグリーンバーグはかいているらしいということ。

実際はもっと色々な話が合ったのだけど、僕のフリック入力が追いつかなかったりなんなりでメモがない。ともかく研究者たちがどういった観点でポロックらを見ているのかの一端を非常にわかりやすく知ることが出来て良かった。



以下は講演を聴いた個人的な感想。多分に偏見が混じっているし、また一般化しすぎているかもしれない。

例えば神話の場面を描いた古典的な絵などはその神話の知識がなければ100%楽しめないとしても、実際のところそこに描かれていることは分かるし、ああキレイだねすごいねというレベルにしても絵の価値を自分なりに計ることは出来る。ピカソでも、まあギリギリなんかすごいというのが分かる気がする。

一方でポロックなどの現代芸術は、もう、なんというか、何コレ、という感じで一体どう向き合えば良いのか皆目検討も付かなかった。

今回の講演で何となく分かったのは、現代芸術は単体では作品としては成り立ちえず、批評されて、つまりそれについて語られて初めて意味を持つ、というか、批評それこそがある意味主であり、作品+批評=現代芸術 なのだと思った。
そういう意味で当事者である批評家のグリーンバーグが重要なのは多分当たり前で、彼がポロックをどう語ったのかということがポロックの作品を成り立たせている。
つまりポロックの絵だけを見ていた僕は完全に片手おちであり、ポロックを見ようとするならグリーンバーグやその他の批評家を最低限読まなければいけなかった。

芸術が形式の革新というか目新しさを追求し、前とは全く違うモノをつくるために結果として人が常識的な感覚で理解するための制約をすべて取り払ってしまったために、現代芸術は完全に前後の作品との関係性のみでしか語ることが出来なく成ってしまっているように見える。しかしそれは批評によって始めて明らかになるものであり、作品単体が他の作品との関係を語ることはない。

実際今回の講演での話はほとんど、グリーンバーグがどう彼を賞賛したのか、そして彼がどうピカソと違うのか、という点に終始していた。作品それ自体の批評はなく、それがどうすごいのかというのは、それが如何に既存の絵画形式を破壊したのか、破壊してなお絵画として成立したのかという点のみであった。少なくとも初心者向けの講演でそれを軸に語ると言うことは、現代芸術の視点はまず第一にそこ、すなわち他の作品との関係にあるのだと思う。

しかしそれは完全にメタな視点であると思う。
芸術の形式を破壊したこと、それ自体に価値を見いだすというのは、非常にメタな楽しみである。それは芸術について一定以上の知識があって初めて理解できることであり、知識のない門外漢には全く理解できない。
例えばミステリーのお作法を破った作品があったとして、その破ったことに価値を見いだすのは、ミステリーに造詣のあるものだけである。もちろんその作品が普通に面白くて誰が読んでも面白いことはあり得るが、そこに形式の打破を見いだして楽しむのは批評の楽しみであり、知識のあるものだけである。
そして現代芸術というのは例えばホームズやポアロなどのミステリーを一通り知ってその様式を知ることで違いを理解できる作品であり、その違いを理解できること自体を楽しむというかなり高度なゲームである。

つまるところ現代芸術というのは芸術オタクによるメタなゲームであると僕は理解した。そう考えると例えばフィギュアの善し悪しを語るような反村上隆的な現代芸術に対する批判は非常に的外れであるということが分かる。それはサッカーのルールを知らない金持ちが、一人一個ずつボール買ってあげるからとりあうなんてやめろよというレベルの見当違いな話じゃないだろうか。
一方でそういったメタな遊びについて興味のない人間にとって、現代芸術は完全に無価値である。というか考える意味がない。僕は講演を聴く前は現代芸術の価値というのはなにか大勢に訴える何かがあるのではないか、しかしそれを語る言葉を僕が知らないだけではないかと思っていたけど、いまはそれは勘違いだった。
もちろん僕が知らないなりにポロックをわりといーなーと思っていたのは事実だし、誰だってそういうところから入っていくのだと思う。しかし現代芸術の価値、それはメタ視点による批評が作り出すであり高度に専門的なインテリの遊びなのだろう。

それを前提に現代芸術を見るのであれば、それはなかなか知的に楽しいのだろうと思うし、ファンがそれなりにいるのも分からないでもない。


ただ個人的には制約が創造性を生むと思っているので、斬新でなければいけないちょっとメタな制約が果たして芸術が発展しているのか? たんなる袋小路にはまり込んでいるのではないかという疑問を感じる。
過去の古典的な様式の絵を描く画家がたくさん居て、その様式ないでも技術的にも発展があったのに対して、ポロックの形式は全く発展性がない。ワンアンドオンリーではあるのは、その形式に従ってもポロックのコピー以外の作品を作れないからだと思う。
そう考えると現代芸術が次々に新しい様式を作り出さなければいけないのは、その様式が発展の余地のない非常に貧困なものだからではないかとおもう。


そういえば、このグリーンバーグの著書、非常に、非常に、読みづらいらしい。確かに講演中引用されていた文章だけを見ても非常に難解であると感じられた。
二十年間ポロックの研究をしているというプロ中のプロである今回の講演者ですら未だに全部を理解できないと言っていた。門外漢が読んで分からないならともかく、その筋の研究者が読んで理解できないとなると、僕の視点からすると、悪文中の悪文であり、文筆家としては恥としか言えないんだが、それでも批評家の第一人者となれというのなら、美術界というのは摩訶不思議である。
文系は一行を百行にするというジョークも的を射ているのではないかと思ってしまう。ただその悪文を読み解く研究、という形で後世の人に食を用意しているんだから、ある特定分野については文章というのはむしろ読みにくくするのが良いことなのかもしれない。


ふーむ、色々書いているうちに現代芸術に対して超絶否定的な形で終わった。村上隆嫌いが全力で出てしまったのかもしれない。最終的な感想としては現代芸術はオタクの遊びなんだから、大きな顔しないで隅っこで自分たちで楽しんでろよってことですね。